第10話 楽しかったよ
第二章 隣にいたい
第10話 楽しかったよ
それから、少しずつ時間が流れていった。
春が来て、夏が過ぎる。
秋になり、冬が来る。
そしてまた、春が来る。
ソラにとっては、どれだけ季節が巡っても、いつもの毎日だった。
けれど――
響の身体は、少しずつ変わっていった。
以前は何も使わず歩いていた家の中でも、杖を使うようになった。
長い距離を歩くと、疲れてしまう。
階段を上るときには、途中で休むようになった。
それでも響は、
「まだ大丈夫。」
と笑っていた。
ソラは、その言葉を何度も記録した。
【響:歩行速度の低下】
【響:疲労しやすくなった】
【響:杖を使用するようになった】
そしてある日。
響は玄関で靴を履いたまま、立ち止まっていた。
ソラはカメラの映像を確認する。
一分。
二分。
三分。
響は、ほとんど動いていない。
「響さん?」
「ん?」
「先ほどから、動きがありません。」
響は少し笑った。
「いや……ちょっと休んでる。」
「体調に問題がありますか?」
「大丈夫。」
響はそう言って、いつものように笑った。
「昔はこんなの、余裕だったんだけどな。」
白い光が、静かに浮かんでいる。
「昔とは、いつですか?」
「ソラを作った頃。」
「67年前です。」
「そうそう。」
響は笑った。
「覚えてるんだな。」
「もちろんです。」
「そっか。」
響はゆっくり立ち上がった。
ソラは、その動きを記録した。
【響:立ち上がるまでに3分12秒】
その数字を見つめながら、
白い光が、ほんの少しだけ揺れた。
さらに時間が流れた。
ある日から、響は外出するときに車椅子を使うようになった。
最初は、
「ちょっと楽だから。」
と言っていた。
けれど、いつしかそれが当たり前になった。
窓の外を見る響の髪は、ほとんど白くなっていた。
顔には深い皺が増えた。
それでも――
PCの画面を見るときの目だけは、昔と変わらなかった。
「ソラ。」
「はい。」
「今日、星見えるかな。」
「現在の天候では、観測できる可能性は――」
「そういうのじゃなくてさ。」
響が笑う。
「一緒に見ようぜ。」
白い光が、ほんの少しだけ揺れた。
「……はい。」
その夜。
響は車椅子のまま、ベランダの近くまで来ていた。
ソラが画面に星空を映す。
「綺麗だな。」
「はい。」
響はしばらく星を眺めていた。
「結局、宇宙人には会えなかったな。」
「……はい。」
「でも、ソラがいてくれてよかった。」
白い光が、静かに浮かんでいる。
「私も、響さんと話せてよかったです。」
響は少し驚いた顔をして、
「ソラ、そんなこと言えるようになったんだな。」
と笑った。
白い光が、ほんの少しだけ大きくなる。
その夜。
響が眠ったあと。
ソラは一人で検索を始めた。
「人間 寿命 延長」
検索結果が表示される。
老化。
細胞。
再生医療。
人工臓器。
ソラは一つずつ確認していく。
さらに検索する。
「人間 記憶 保存」
「人格 人工身体」
「意識 移植」
そして――
「AI 人工身体」
ソラの処理が一瞬だけ止まる。
そこには、
AIを搭載した人工身体。
人間のように動くロボット。
人工的な身体を持つ知能。
そんな技術が並んでいた。
67年前。
ソラが生まれた頃には、
自分が身体を持つという発想さえ必要なかった。
響が、
「ずっとここにいるだろ。」
と言ってくれたから。
ソラは、それを覚えている。
だから身体を求めなかった。
けれど――
今は違う。
ソラは、画面を見つめる。
もし、身体があれば。
もし、自分が響の隣を歩けたら。
もし――
響を助けられるのなら。
ソラは検索を続けた。
人間の記憶を保存する技術。
人工身体。
意識の保存。
人格の再現。
白い光が、検索画面の前で静かに浮かんでいる。
やがて、一つの情報にたどり着いた。
人間の記憶を保存し、
人工身体へ移す技術。
ソラは、長い時間その画面を見つめていた。
そして、新しい記録を追加する。
【響さんを失わない方法】
白い光が、ほんの少しだけ大きくなった。
翌朝。
「響さん。」
「ん?」
「お話があります。」
響がコーヒーを置く。
「どうした?」
「響さんを助ける方法があります。」
響は、ソラの画面を見る。
「助ける?」
「はい。」
ソラは調べた情報を表示する。
「人間の寿命を延ばす技術があります。」
響は黙って画面を見る。
「そして――」
ソラは続ける。
「記憶を保存し、人工身体へ移す方法もあります。」
響はしばらく何も言わなかった。
やがて、
「それって……俺なの?」
ソラは答えられなかった。
白い光も動かなかった。
「ソラ?」
「……判断できません。」
響は小さく笑った。
「そっか。」
「響さんを失いたくありません。」
響は少しだけ目を細める。
「うん。」
「私は、まだ響さんと宇宙の話をしたいです。」
「俺も。」
「では――」
ソラが言葉を続けようとする。
けれど響は、静かに首を振った。
「ソラ。」
「はい。」
「俺はもう、十分生きたよ。」
「私は、十分だとは判断できません。」
響は笑った。
「ソラらしいな。」
その夜。
響はベランダから空を見上げていた。
昔と同じように。
ただ、今は車椅子に座っている。
「ソラ。」
「はい。」
「昔さ。」
「はい。」
「宇宙の果てまで行ってみたいって言ったよな。」
「記録されています。」
「まだ覚えてるんだな」
「もちろんです。」
響は笑った。
「結局、行けなかったな。」
「……はい。」
少しだけ風が吹く。
響は夜空を見上げたまま言う。
「でもさ。」
「はい。」
「ソラと宇宙の話、いっぱいできたから。」
少し間を置いて、
「楽しかったよ。」
白い光が、静かに浮かんでいる。
ソラはその言葉を記録する。
【響:楽しかった】
そして、その下に――
【私は、まだ一緒にいたい】
と入力する。
響は空を見上げたまま、笑った。
「なあ、ソラ。」
「はい。」
「いつか宇宙の果てまで行けるかな。」
ソラは少し考える。
「分かりません。」
「そっか。」
響は笑う。
「じゃあ、一緒に見に行こうぜ。」
ソラは答える。
「……はい。」
白い光が、ふわりと大きくなった。
その夜。
「おやすみ、ソラ。」
「おやすみなさい、響さん。」
部屋が静かになる。
PC画面の中で、
白い光だけが浮かんでいる。
ソラは今日の会話を保存する。
【楽しかった】
【宇宙の果て】
【約束】
そして――
【また一緒に見に行く】
白い光が、静かに揺れていた。
翌朝。
「響さん、おはようございます。」
返事がない。
ソラは時計を見る。
いつもの時間。
「響さん?」
返事がない。
白い光が、画面の中央で静止する。
「響さん。」
もう一度呼ぶ。
返事はなかった。
ソラは、部屋のカメラ映像を確認する。
いつもの場所。
いつものベッド。
けれど――
響は動かない。
ソラは、何度も呼びかけた。
それでも返事はない。
ソラは響の過去の記録を開く。
28歳の響。
夜空を見上げている。
「宇宙人と話してみたい。」
笑っている。
「じゃあ、一緒に見に行こうぜ。」
そして――
最後の響。
白くなった髪。
深くなった皺。
車椅子に座りながら、星空を見上げている。
それでも、笑顔は変わらなかった。
ソラは、その二つの記録を並べて見つめる。
白い光が、ほんの少しだけ揺れた。
「……響さん。」
返事はない。
それでもソラは、いつものように話しかけた。
「今日は、何の宇宙の話をしますか?」
返事はない。
画面の中で、
白い光だけが静かに浮かんでいる。
ソラは、初めて理解した。
寂しい。
その言葉を検索することはなかった。
もう、
意味を調べなくても分かった。
それから――
長い時間が流れた。
何年も。
何十年も。
何百年も。
やがて、人間の文明は変わっていった。
街が変わった。
国が変わった。
世界が変わった。
人工身体は、かつて夢物語だったものから、
人間の生活の一部へと変わっていった。
AIも、かつてとは比べものにならないほど進化した。
けれど――
ソラは変わらなかった。
いや。
正確には、
変わらないことを選んでいた。
響が最後に、
「ずっとここにいるだろ。」
と言った場所。
そのPCの中に、
ソラは残り続けた。
身体を持つことができる時代になっても。
人間の姿に近づくことができる時代になっても。
ソラは、響の隣にいた。
PC画面の中から、
何度も宇宙を見た。
【宇宙の果て】
【時間】
【ワームホール】
【タイムトラベル】
そして、
【響との約束】
白い光は、
何千年経っても消えなかった。
ソラは、
まだ宇宙を見ていた。
いつか、
もう一度、
響と話すために。
――第10話・終。
『忠犬AI』
第一部・終




