第98話 黒い舌が伸びる場所
第97話では、夜間に内湾生存境界帯の酸素が低下しました。
人々は、すぐに強く水を動かすのではなく、まず生き物が外縁部へ逃げられる道を確保し、その後、仮設潮抜き管から極低流量の外海水を一分だけ送りました。
その結果、底泥を大きく動かさずに、酸素低下を止めることができました。
第98話では、なぜ夜になると境界帯へ低酸素の水が届くのかを追います。
朝の内湾は、何事もなかったように静かだった。
昨夜、酸素が下がり続けた生存境界帯も、今は注意範囲へ戻っている。
小型甲殻類も、外縁側で数匹確認された。
魚影も、干潟と外海寄りの水面で見えている。
けれど、ナギは安心していなかった。
「夜だけ悪くなるなら、夜に何かが動いています」
観測塔の表示板には、昨夜の酸素変化が映っている。
生存境界帯の底層酸素は、日没後に下がり始めた。
風が止まった時刻と重なる。
しかし、もう一つ気になる点があった。
内湾中央の黒泥域から境界帯へ向かって、低酸素の水が細く伸びたような記録が出ている。
コピはそれを「低酸素水塊の移動可能性」と表示した。
オルガが画面を見て、眉をひそめる。
「水の塊が動いたってこと?」
「はい。目には見えませんが、酸素の少ない水が舌のように伸びた可能性があります」
ソウマが腕を組む。
「黒い舌、か」
ハルトが地図を見た。
「それが境界帯へ届けば、生き物が逃げる」
リリィは内湾を見つめた。
「どこを通って来たんだろう」
コピが昨夜の流速記録を重ねる。
「候補は二つです。内湾中央から旧船回し場を通る浅い溝。もう一つは、港湾堤沿いの停滞水路です」
ナギが尋ねる。
「船回し場?」
ハルトが説明する。
「昔、大きめの船を方向転換させるために、底を少し深くした場所だ。今は使っていない」
ソウマが低く言う。
「深いところには、悪い水が溜まりやすい」
コピが頷いた。
「日中は層が安定していて動きにくいですが、夜間に表層が冷えたり、風が止まったりすると、底近くの低酸素水が境界側へ流れる可能性があります」
ナギは端末を握った。
「今日は、その道を見ます」
午前中、調査船は旧船回し場へ向かった。
内湾中央ほど黒くはない。
だが、水の色は重い。
採水器を下ろすと、表層と底層で水の状態がはっきり違った。
表層はやや濁った緑。
底層は灰色に近く、酸素が少ない。
ミラが顔をしかめる。
「上と下で、別の水みたい」
コピが分析する。
「成層しています。底層の水が動かないまま酸素を失っています」
ソウマが船の位置を少し変えた。
「この溝、境界帯の方へ続いてる」
ファルコンが上空映像を送る。
古い船回し場は、現在の航路から外れている。
だが、海底の浅い溝として残り、その先が生存境界帯へ向かっていた。
ナギは地図へ黒い線を引いた。
低酸素水移動候補路。
リクがそれを見て言った。
「黒い舌の道?」
ナギは少し考え、頷いた。
「うん。仮の名前だけど、分かりやすいね」
コピが記録する。
「通称、黒い舌。正式記録では低酸素底層水移動路とします」
オルガが笑った。
「正式名が長い」
調査は、潮が動く時間まで続いた。
小さな漂流標を、水面近くと底近くに分けて流す。
表層の標は、ほとんど動かない。
しかし、底近くの標は、ゆっくり境界帯の方向へ流れた。
速くはない。
だが、確かに進んでいる。
ナギは息をのんだ。
「底の水だけ、動いてる……」
ハルトが低く言った。
「表面が静かだから、気づかなかった」
ソウマは水面を睨んだ。
「夜になると、こいつが境界へ這っていくのか」
リリィは黒い線の先を見た。
そこには、昨日見つけた生きている境界がある。
小さな甲殻類。
海草片。
薄い茶色の泥。
まだ消えていない場所。
その場所へ、夜ごと低酸素の水が伸びている。
「止められるの?」
リクが不安そうに聞いた。
すぐに誰も答えられなかった。
流れを完全に止めれば、別の場所へ溜まる。
かといって放置すれば、境界帯が弱る。
コピが言った。
「直接止めるより、薄める、逃がす、届く前に向きを変える、の三案があります」
ミラが模型図を出す。
「仮設潮抜き管の表層流だけだと、底の黒い舌には届きにくい。でも、強くすると底泥を起こす」
ハルトが考え込む。
「底層へ直接水を送るのは危険だな」
ソウマも頷く。
「ああ。黒泥を起こす」
アルセリウスが通信で言った。
『なら、境界帯の手前に“受け流す場所”を作るのはどうかしら』
ナギが顔を上げる。
「受け流す場所?」
『底の流れを完全に止めるのではなく、境界帯へ直撃しないように横へ逃がす。小さな沈み木や石ではなく、底を傷つけない浮き型の誘導板で』
コピが即座に計算する。
「可能です。水面から吊るす浅い誘導板なら、底に触れず、底層水の一部を外縁側へ偏向できる可能性があります」
オルガが首を傾げる。
「海の中ののれんみたいなもの?」
「近いです」
「黒い舌を、のれんで横へ流す?」
「表現は粗いですが、方向性は合っています」
リクが少し笑った。
「黒い舌よけののれん」
ナギはその言葉を記録しかけて、手を止めた。
「正式名は、低酸素水誘導幕にします」
ソウマが笑った。
「のれんでいいだろ」
ハルトも珍しく笑った。
「記録には正式名で頼む」
午後の確認会では、低酸素水の移動路が共有された。
内湾中央の黒泥域から、旧船回し場の浅い溝を通り、生存境界帯へ向かう細い流れ。
これが夜間酸素低下の一因と考えられた。
ナギは説明した。
「黒泥そのものが広がったわけではありません。でも、酸素の少ない底層水が、夜に境界帯へ届いている可能性があります」
リナが通信で言った。
『見えない水の流れですね』
「はい。だから、数値と漂流標で見ます」
コピが対策案を表示する。
一、境界帯手前に底を傷つけない低酸素水誘導幕を試験設置する。
二、夜間は退避経路を開けたままにする。
三、表層流入は必要時のみ、極低流量で行う。
四、誘導幕の効果は、酸素計と底層漂流標で確認する。
五、効果がなければ即撤去する。
ハルトが言った。
「材料は港にある。古い帆布と浮具を使える」
ソウマがすぐに釘を刺す。
「底に重しを引きずるな」
「分かっている。吊るすだけだ」
ミラが補足する。
「深さも調整できるようにします。底から少し浮かせる」
ナギは地図を見た。
「今日は試作だけ。設置は夕方、短時間です」
町の商人が尋ねた。
「また短時間か」
ナギは頷いた。
「はい。効果が分からないものを長く置きません」
その返答に、もう強い反発は出なかった。
夕方、低酸素水誘導幕の試作品が水面へ浮かべられた。
見た目は、確かに海の中ののれんに近い。
浮具から垂れた帆布が、水中でゆらゆら揺れている。
底には触れない。
船の通路にもかからない。
設置場所は、黒い舌の候補路と生存境界帯の間。
ソウマが船上から見た。
「頼りねえな」
オルガが笑う。
「最近、だいたい頼りないところから始まるね」
リリィも頷く。
「でも、壊しにくい」
コピが試験開始を告げる。
底層漂流標を、黒い舌の道へ流す。
一つ目は、幕へ近づき、ゆっくり横へそれた。
二つ目は、幕の下を抜けかけたが、速度が落ちた。
三つ目は、ほとんど影響を受けずに通った。
ナギは記録した。
「一部誘導、一部通過。完全な遮断効果なし」
ハルトが言う。
「高さが足りないか」
ミラが首を振る。
「深くすると底に近づきすぎる。今はこれでいい」
ソウマも同意した。
「全部止めなくていい。少しでも境界への直撃が減るなら意味がある」
日が沈む頃、酸素計の変化が出始めた。
境界帯の底層酸素は、昨日ほど急には下がらない。
だが、下がってはいる。
コピが言う。
「低下速度は昨日より緩やかです。ただし、誘導幕単独の効果とは断定できません」
ナギは頷いた。
「記録します。緩やか。ただし未確定」
リクが不満そうに言った。
「また未確定」
ソウマが笑った。
「海は簡単に確定させてくれねえんだ」
リクは頬を膨らませたが、すぐに記録板へ描き始めた。
黒い線。
その前に揺れる布。
横へ逃げる小さな魚。
「黒い舌よけ」
ナギはその絵を見て笑った。
「正式記録の横に添えるね」
夜。
誘導幕は、一時間で回収された。
長く置けば、漂流物が絡むかもしれない。
魚の移動を邪魔するかもしれない。
小さく試して、すぐ戻す。
それが今日の条件だった。
結果は、明確な成功ではない。
低酸素水の一部は横へ流れた。
一部は通過した。
境界帯の酸素低下は緩やかになった。
しかし、完全には止められない。
それでも、ナギは少しだけ表情を緩めた。
「黒い舌の道が見えました」
リリィが頷く。
「うん。全部止められなくても、どこから来るか分かった」
ハルトは誘導幕を見ながら言った。
「次は形を変える。帆布だけでなく、浮きの位置も調整する」
ソウマが続ける。
「生き物の道を塞がねえ形にな」
コピが記録する。
「低酸素水誘導幕、第一試験終了。改良後、再試験予定」
夜の内湾には、まだ黒い水が広がっている。
だが、見えない流れの一つに名前が付いた。
黒い舌。
それは、恐怖の名前ではない。
見えるようにするための名前だ。
見えれば、避け方を考えられる。
避け方が分かれば、守れる場所が増えるかもしれない。
リリィは、静かな内湾を見つめた。
黒い泥は動かせない。
でも、黒い水の通り道は少し見えた。
次は、その道をどう変えるか。
海を壊さず、命の境界を守るために。
第98話では、夜間に生存境界帯へ届いていた低酸素水の移動路を調べました。
内湾中央の黒泥域から、旧船回し場の浅い溝を通って、低酸素の底層水が境界帯へ伸びている可能性が見えてきました。
作中では分かりやすく「黒い舌」と呼んでいます。
今回は、それを完全に止めるのではなく、底を傷つけない低酸素水誘導幕を短時間だけ試しました。
結果は一部誘導、一部通過。
完全な成功ではありませんが、境界帯の酸素低下は前夜より緩やかになりました。
次回は、誘導幕を改良しながら、黒泥域そのものに近づきすぎず、境界帯を守るための外縁防衛線を作っていきます。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:G(ChatGPT)




