第95話 黒い泥は眠っていない
第94話では、補強した旧雨水樋門をわずかに開き、処理済みの港湾雨水を引き潮に乗せて外海へ送りました。
魚群の動きを見たソウマが停止を求め、試験は予定より早く終了しましたが、誰でも流れを止められる手順が実際に機能しました。
雨水の入口と潮の出口は、少しずつ整い始めています。
しかし、内湾の底には、長年溜まり続けた黒い泥が残っています。
第95話では、その泥を動かす前に、何が沈んでいるのかを調べます。
内湾の水面は、静かだった。
旧雨水樋門の試験が終わっても、黒い底泥が消えたわけではない。
仮設潮抜き管で外海の水を少し入れた。
港の雨水も処理し始めた。
旧雨潮連絡路から、処理済み排水を外へ出すこともできた。
それでも、港湾堤の影にある水は暗いままだ。
ソウマは小型船の上から水面を見下ろした。
「入口と出口だけ直しても、底に溜まったものは残る」
ハルトが隣で答える。
「分かっている。だが、一気にさらうのは危険だ」
「俺も、もう浚渫しろとは言わねえ」
ソウマはそう言って、船の底に置かれた細長い採泥器を見た。
今日の目的は、泥を取り除くことではない。
少量だけ採り、どこに、どれほど、何が溜まっているのかを確かめることだった。
ナギが調査地点を表示する。
「採泥地点は四か所です」
港湾雨水の出口近く。
内湾中央。
旧潮抜き水路の前。
比較用として、外海との境に近い場所。
コピが続ける。
「底泥をかき混ぜないよう、細い筒を垂直に差し込みます。表層から深部まで、層を崩さず採取します」
オルガが採泥器を覗き込む。
「長い筒で泥を抜くだけ?」
「はい」
「簡単そう」
ミラが首を振った。
「斜めに入ったら、泥を崩しちゃう。船も動かさないようにしないと」
ファルコンが上空から位置を確認する。
「風が弱い今のうちに始めた方がいい」
最初の地点は、修理場の排水口近くだった。
船を固定し、採泥器をゆっくり下ろす。
水面を越え、暗い水の中へ沈み、底へ触れる。
コピが指示した。
「押し込み、十センチ」
作業員が慎重に力を加える。
「二十センチ」
さらに下がる。
「停止。引き上げます」
採泥器が水面へ戻った。
透明な筒の中に、黒い泥が詰まっている。
上は柔らかく、水分が多い。
中ほどには細かな砂と錆の粒。
下には、灰色がかった古い泥。
蓋を開けなくても、異様な暗さが分かる。
リリィは筒を見つめた。
「時間が層になってる」
アルセリウスが頷く。
「上ほど新しく、下ほど古い。港が何を流してきたかが残っているわ」
コピが非接触分析を始める。
「上層に油分反応。金属成分。細かな樹脂片。有機物濃度、高。深部では硫化反応が強くなっています」
ハルトの顔が曇った。
「港の汚れが、そのまま積もっている」
ソウマが言う。
「海は捨て場じゃねえからな。消えずに残る」
ハルトは反論しなかった。
二か所目は内湾中央。
ここでは、採泥器を引き上げた瞬間、筒の上部に小さな泡が生まれた。
コピが警告する。
「密閉を維持してください。ガス反応があります」
作業員が手を止める。
ナギが少し下がった。
「開けたら危険ですか?」
「この場では開けません。専用容器へ移し、換気設備のある場所で確認します」
オルガが顔をしかめる。
「底では、これがずっと溜まってるんだ」
「はい」
黒い泥は眠っているように見える。
だが、内部では有機物が分解され、酸素が失われ、ガスが生まれている。
動かないから安全なのではない。
動かせば広がる。
放置すれば、さらに悪化する。
ハルトが低く言った。
「厄介だな」
コピが答える。
「はい。除去、覆砂、酸素供給、水交換など複数の方法がありますが、どれも条件によって逆効果になる可能性があります」
ソウマが採泥筒を見る。
「海へ空気を入れるのはどうだ」
「強い曝気は底泥を巻き上げる危険があります。表層への緩やかな酸素供給と、底層への影響を分けて考える必要があります」
リリィは黒い水の向こうを見た。
「起こさないように、息を戻す」
「その表現が近いです」
三か所目は、旧潮抜き水路の前だった。
ここでは泥の層が薄かった。
ファルコンが上空から言う。
「昔、水が動いていた場所だからかもしれない」
コピも分析する。
「中央部より底泥厚が小さいです。砂分が多く、ガス反応も弱い」
ナギが地図に印を付けた。
「水が通っていた場所は、溜まりにくかった……」
ハルトが旧図面を見る。
「潮の道が閉じてから、内湾中央へ泥が集まり始めたのかもしれない」
最後は、外海との境に近い場所。
採れた泥は茶色く、黒い層は薄い。
小さな貝殻も混ざっていた。
ソウマが筒を見て言う。
「ここはまだ底が生きている」
リリィが尋ねる。
「色だけで分かるの?」
「色も、臭いも、触れた時の重さも違う。黒い泥は、網に付くと粘って落ちねえ」
ナギが記録する。
「漁師の底質感覚。比較地点では貝殻あり、粘りが少ない」
数字だけでは見えない違いを、ソウマの経験が補う。
四本の採泥筒が、港湾管理棟へ運ばれた。
並べて見ると、違いは明らかだった。
排水口付近には新しい港の汚れ。
中央部には厚い黒泥とガス。
旧潮抜き水路前には砂が多く、泥は薄い。
外海寄りには貝殻が残っている。
ナギは新しい底質地図を作った。
黒は、厚い低酸素泥。
赤は、油や金属の影響が強い場所。
灰色は、中間域。
茶色は、比較的状態の良い底。
内湾全体が同じように悪いわけではなかった。
「場所ごとに、やることが違う」
ナギが言った。
コピが頷く。
「はい。排水口付近では、新たな流入を止めることが優先。中央部では撹乱回避と酸素状態の改善。旧潮抜き水路前では、水交換を戻す試験が有効である可能性があります」
ハルトが尋ねる。
「黒い泥を取り除くのは、最後か」
「少なくとも最初ではありません」
ソウマも同意した。
「今さら全部さらえば、内湾中に広がる」
オルガが地図を見た。
「じゃあ、まず入口を止めて、道を作って、上の水から少し動かす?」
ミラが頷く。
「それから、底がどう変わるか見る」
アルセリウスが続けた。
「泥を直接直そうとするのではなく、泥が悪化し続ける条件を一つずつ減らすのね」
リリィは地図を見つめた。
病気になった場所だけを切り取るのではない。
なぜそこに負担が集まったのか。
何が入り、なぜ出られず、どうして酸素を失ったのか。
構造を直さなければ、新しい泥がまた溜まる。
午後の確認会では、内湾底泥の初期方針が決められた。
一、現時点で大規模浚渫を行わない。
二、港湾雨水処理を優先し、新たな負荷を減らす。
三、仮設潮抜きによる表層水交換を段階的に続ける。
四、底泥の厚さ、ガス、酸素を定期観測する。
五、状態の良い外縁部を保護し、悪化を広げない。
六、少量の泥を使い、陸上で処理方法を試験する。
最後の項目に、ハルトが反応した。
「陸上で試す?」
コピが説明する。
「採取した少量の泥に、酸素を入れた場合、砂で覆った場合、乾燥させた場合などの反応を比較します。海の中で直接試す前に、危険を確認できます」
ソウマが言った。
「海を実験場にする前に、桶の中でやるわけか」
「はい」
ナギが記録した。
底泥小規模処理試験。海中実施前に陸上で比較。
ハルトは頷いた。
「それなら、港の空き倉庫を使える」
リナが通信越しに言った。
『処理した泥は、土に戻せるのでしょうか』
コピは慎重に答える。
「金属や油分を含むため、現時点では農地利用できません。成分ごとの分離と安全確認が必要です」
ゲンも言った。
『山へ持ってくるなよ』
オルガが笑う。
「そこははっきりしてるね」
『海の問題を山へ移しただけでは解決にならん』
ゲンの言葉に、会議室の人々が頷いた。
問題を別の場所へ捨てない。
内湾から泥を出せば終わりではない。
取り出した後、どう扱うかまで考えなければならない。
夕方。
港の空き倉庫に、四つの小さな密閉槽が並べられた。
中央部から採った黒泥を、同じ量ずつ入れる。
一つ目は、そのまま観測。
二つ目は、表面へゆっくり空気を送る。
三つ目は、薄い砂で覆う。
四つ目は、港の外縁部から採った比較的状態の良い泥を少量重ねる。
コピが注意事項を表示する。
「これは回復方法の確定試験ではありません。臭気、ガス、酸素、金属溶出、濁りの変化を見るための予備試験です」
リクが倉庫の外から中を覗いた。
「黒い泥、元気になるの?」
ナギは少し考えた。
「泥が元気になるというより、泥の上に生き物が戻れる状態になるかを見るの」
「すぐ戻る?」
「すぐには戻らないと思う」
リクは少し残念そうだった。
リリィが隣にしゃがむ。
「でも、急に海の中でやって失敗するより、ここで確かめた方が魚を守れるよ」
リクは槽を見た。
「じゃあ、泥を起こさないための実験?」
「うん。たぶん、そう」
夜。
空き倉庫には観測灯だけが残った。
四つの槽の中で、黒い泥は静かに沈んでいる。
表面へ空気を送る槽からは、小さな泡が上がっていた。
ナギは記録表を確認する。
「開始直後、目立った変化なし」
コピが答える。
「変化は数時間から数日かかる可能性があります」
「毎日見るんですね」
「はい」
ナギは苦笑した。
「また地味な仕事が増えました」
ハルトが倉庫の入口から言った。
「港の作業員も交代で見る。観測塔だけに任せない」
ソウマも続ける。
「漁師は、内湾外縁の底を見る。貝や小魚が減っていないか確認する」
リリィは二人を見た。
もう、誰かに言われて役割を決めているのではない。
それぞれが、自分の見られる場所を選んでいる。
内湾の黒い泥は、まだ動かない。
だが、その周りの人々は動き始めていた。
翌朝。
ナギが倉庫へ入ると、空気を送っていた槽の表面に変化があった。
黒い泥の上に、赤茶色の薄い膜が浮いている。
同時に、金属成分を示す計器が反応していた。
「コピ、これ……」
コピが測定する。
「酸素供給により、泥中の一部金属成分が表面へ移動した可能性があります」
ハルトが顔をしかめた。
「空気を入れれば良くなると思っていたが」
「酸素を入れることで、別の成分が動く場合があります」
ソウマが槽を見た。
「やっぱり、簡単じゃねえな」
一方、砂を薄く重ねた槽は、表面の濁りが抑えられていた。
だが、その下のガス反応は残っている。
覆えば見えなくなる。
しかし、泥そのものが変わったわけではない。
ナギは二つの槽を見比べた。
「空気を入れれば全部良くなるわけでもない。砂で隠せば終わりでもない」
リリィは頷いた。
黒い泥は、ただ眠っているのではなかった。
触れれば、内部に溜めていたものを動かす。
酸素にも反応し、砂の下でも変化を続ける。
内湾を戻すには、もっと丁寧に泥の性質を知らなければならない。
コピが警告を表示した。
「空気供給槽で金属成分の上昇が続く場合、試験を停止します」
ナギはすぐに記録した。
「停止条件を設定します」
ハルトが頷く。
「海へ入れる前に分かってよかった」
ソウマも黒い槽を見つめた。
「ああ。このまま内湾の底へ空気を送ってたら、何が広がるか分からなかった」
リリィは倉庫の外に見える暗い内湾を見た。
入口と出口を直すだけでは足りない。
底泥へ酸素を入れるだけでも足りない。
一つの正解を当てるのではなく、危険を小さく見つけていく。
それが、今できる進み方だった。
黒い泥は眠っていない。
長い年月に受け取ったものを抱え、今も海の底で変化し続けている。
次に必要なのは、その泥を消す方法ではない。
何を動かし、何を動かしてはいけないのかを見分けることだった。
第95話では、内湾四地点から少量の底泥を採取し、泥の厚さや成分の違いを調べました。
港湾雨水の出口近くには油や金属、内湾中央には厚い黒泥とガスが多く、旧潮抜き水路の前や外海寄りでは泥が薄いことが分かりました。
そのため、内湾全体を同じ方法で扱わず、場所ごとに対策を変える方針となります。
また、採取した黒泥を使った陸上予備試験では、空気を入れることで金属成分が動く可能性が見えました。
酸素を送ればすぐ改善するわけでも、砂をかぶせれば解決するわけでもありません。
次回は、それぞれの底泥試験の変化を追いながら、内湾で最初に守るべき「まだ生きている境界」を探します。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:G(ChatGPT)




