星印 ノーティカルスター
破炭大牙は、再び扉の前に立っていた。
さっき見た光景が、頭から離れない。
腐臭。
死体。
あの空間。
喉の奥が、まだ軋んでいる。
(……また、行くのか)
足が、わずかに止まる。
「さっきの部屋、気になる点が多すぎる」
龍二が、低く言う。
「このまま何も分からんままやと、次に何が起きるかも分からん」
短く息を吐く。
「情報が要る」
視線が、大牙に向く。
「怖いのは分かる」
「でもな」
「何も知らん方が、よっぽど危ない」
言葉は、冷静だった。
「俺が前出る」
「お前は後ろでいい」
「それでいいから、ついて来い」
一歩、龍二が前に出る。
「止まっとっても、何も変わらんじゃろ」
魚名の声。
軽い調子のまま。
だが、逃げ場を塞ぐ一言だった。
(……そうだ)
大牙は、息を吐く。
怖い。
それでも——
(ここで止まったら、終わる)
「……行きます」
小さく、答える。
龍二が頷く。
扉に手をかける。
押す。
——重い。
ゆっくりと、開く。
腐った空気が、流れ出す。
龍二が先に入る。
大牙が続く。
床が、ぬるりと沈む。
視界を上げる。
そこにあるのは、変わらない。
死体。
折り重なり、 崩れ、
放置されたままの人間。
(……死体)
理解した瞬間、
思考が、止まった。
何も、考えられない。
言葉が出ない。
ただ、
見ている。
理解だけが、進む。
現実だと、
知ってしまう。
「――――」
声が出ない。
喉が動かない。
呼吸が、壊れる。
胸が、締め付けられる。
逃げたい。
でも、
身体が動かない。
次の瞬間。
無理やり、引き裂かれた。
「ぁ、あ……ああああああああああああああああああああ!!!」
喉が裂ける。
視界が歪む。
「破炭!!」
名前を呼ばれる。
強く。
鋭く。
それでも、
まだ遠い。
現実が、戻りきらない。
「……チッ」
次の瞬間。
乾いた音が、響いた。
——パシンッ
頬に、衝撃。
視界が、大きく揺れる。
身体が、引き戻される。
強制的に、現実へ。
龍二の手だった。
「戻れ!!」
怒鳴り声。
真正面から叩きつけられる。
その一撃で、 意識が、繋がる。
視界が、輪郭を取り戻す。
空気が、肺に入る。
“自分が誰か”を思い出す。
それだけで、 かろうじて、踏みとどまった。
「……っ……は……」
荒い呼吸。
震えが、止まらない。
「……すみません」
掠れた声。
「謝るな」
即答だった。
「普通はこうなる」
短い言葉。
だが、それで十分だった。
「立てるか?」
「……はい」
震えながら、頷く。
「よし」
龍二は手を離す。
「お前は奥を見ろ」
「こっちは俺がやる」
迷いのない指示。
大牙は頷き、その場を離れる。
龍二は、死体の前にしゃがみ込む。
腕を掴む。
軽い。
骨のように細い。
「……死んでるな」
視線を落とす。
右腕。
そこに、印があった。
「……なんやこれ」
星。
五芒の形。
「ノーティカルスターじゃの」
魚名の声。
「船乗りがよう彫るやつじゃ。無事に帰れるように、っての」
「……そうなんか」
頷きかけて、
止まる。
違和感。
視線を寄せる。
星の中心。
そこに——
“目”があった。
彫られている。
見ている。
こちらを。
「……こんなん、あるんか?」
魚名が、わずかに黙る。
「……普通は、ないの」
低い声。
「こんなん、見たことないわい 」
龍二は視線を外す。
だが——
目を逸らしたはずなのに、その印だけが視界に残り続けていた。
(……なんや、これ)
気味が悪い。
ただの印ではない。
意味がある。
そう感じてしまう。
「……おい」
魚名の声。
「これ、まだ生きとるぞ」
龍二は振り向く。
一人。
微かに呼吸している。
傍には皿とスプーン。
赤い液体。
(……また、これか)
一瞬、思考が止まる。
だが——
「助ける」
迷わない。
持ち上げる。
「おっさん、手ぇ貸せ」
「おう」
二人で支える。
その瞬間。
——ぐちゃり。
嫌な音。
腕の中の体が、崩れた。
皮膚が裂ける。
中から——
黒いものが、這い出る。
粘つく。
形が定まらない。
それが、広がる。
「……っ!!」
龍二が後退る。
だが——
遅い。
黒が、触れる。
「……あ?」
一瞬だけ、
何が起きたのか理解できない時間があった。
次の瞬間。
引きずり込まれた。
沈む。
抵抗もなく。
そのまま、闇へ。
消えた。
何も残さず。
静寂。
腐臭だけが、そこにあった。
テケリ・リさんではないよ。




