sanguine
扉の向こうに足を踏み入れた瞬間。
空気が、変わった。
先程までの湿った重さが、嘘のように消えている。
代わりに広がっていたのは、柔らかな光だった。
「……どこや、ここ」
龍二が小さく呟く。
そこは、洋室だった。
滑らかな壁。整えられた空間。
窓の向こうには、青く広がる海。
さっきまでいた場所とは、まるで別世界のようだった。
(……普通だ)
大牙は、そう感じた。
あまりにも“普通”だった。
整えられた室内。
人が過ごすために作られた空間。
それが、逆に現実味を帯びている。
部屋の中央には、いくつかのテーブル。
右手には厨房らしきスペース。
小さなレストランのように見えた。
「……さっきの部屋と繋がってるようには見えへんな」
龍二が周囲を見渡しながら言う。
「ですね……」
大牙も同意する。
(……落ち着く)
理由は分からない。
だが、この空間には、どこか安心感があった。
さっきまでの圧迫感が、薄れている。
「お、海見えちょる」
魚名大漁が窓の方へ歩いていく。
その足取りは軽い。
「こういうとこで食う飯は、うまいのぅ」
そう言って、窓の外を眺めた。
その言い方は、どこにでもいる釣り好きの男のそれだった。
「外、出られるんちゃうか?」
その言葉に、大牙も窓へ視線を向けた。
(……確かに)
外には海。
視界を遮るものはない。
「……一応、確認します」
大牙は窓へ近づいた。
海は穏やかだった。
光を反射し、静かに揺れている。
崖の上に建てられた建物のようにも見える。
(……出られそう、か?)
そう思った瞬間。
わずかな違和感が走る。
(……いや)
何かが引っかかる。
だが、それが何かは分からない。
「どうや?」
龍二の声。
「……特に異常はありません。ただ、外に出られるかどうかまでは……」
言葉を濁す。
「なら、他も見とくか」
龍二の視線が、テーブルへ向く。
「……あれ、料理か?」
三人の視線が集まる。
皿の上に、一品の料理。
まだ湯気が立ち上っている。
(……出来立て?)
大牙はゆっくりと近づいた。
匂いが、鼻をくすぐる。
濃く、深い香り。
食欲を刺激する、温かみのある匂いだった。
(……うまそうだな)
一瞬、そう思った。
だが——
(……なんで、ここにある?)
誰が用意したのか。
いつ作られたのか。
考えようとした瞬間、
思考がわずかに鈍る。
「お、飯あるやん。ありがたいのう」
魚名が言う。
その声音は、さっきと変わらない。
だが——
手を伸ばそうとはしなかった。
(……?)
ほんのわずかな違和感。
(……気のせいか)
大牙は意識を切り替える。
「……奥、見てきます」
厨房へ向かう。
中は整頓されていた。
調理器具が並び、使用された形跡がある。
コンロの上には、鍋。
(……これも、出来立てか)
蓋に手をかける。
ほんの一瞬、躊躇する。
(……いや)
そのまま、開けた。
中には、赤いスープ。
静かに湯気を立てている。
匂いが、広がる。
(……さっきのと同じか)
濃く、深い香り。
どこか懐かしいようで、
同時に、引っかかる何かがある。
(……何だ、この感じ)
理解が追いつかない。
ただ——
“何かがズレている”
その感覚だけが、残った。




