雨宿り
数週間後。
季節は巡り梅雨時。
ジメジメとした生温い空気を裂くように、突然のゲリラ豪雨が街へ叩きつけられた。
「うわ、すっげぇ雨……!」
大牙は舌打ち混じりに呟きながら、愛車のバイクごと高架下のコインランドリーへ滑り込む。
エンジンを切ると、雨音が一気に耳へ流れ込んできた。
ざあざあと鉄骨を叩く音。
湿ったアスファルトの匂い。
乾燥機の低い駆動音。
ヘルメットを脱ぎ、濡れた前髪をかき上げながら店内へ入った瞬間。
「……って、またお前かよ」
ベンチに長い足をぶらつかせながら、タブレットをいじっている亜利亜の姿があった。
細い手首には、不釣り合いなくらい古びた腕時計。
見た目は綺麗な女性なのに、その座り方だけ妙に子供っぽい。
「あ……おっきい猫さん」
「だから猫じゃなくて大牙だっつの」
「何、見てんだ?」
「……わたしね、大切な本なくしちゃったの。だから先生のおうちで、これに文字いっぱい入れたの」
抱えるようにタブレットを見せてくる。
大牙は何気なくその画面を覗き込み──背筋に冷たいものが走った。
びっしり並ぶカルテデータ。
意味不明な文字列。
あちら側の怪異について書かれた、不気味な記録。
半年前の『海底の扉』。
そして『婿取り』。
思い出したくもない狂気の気配が、画面越しにじわりと滲んでいた。
ぞわり、と左腕が疼く。
だが、それ以上に。
冷房の効いた店内で、小さく肩を縮めている亜利亜の姿が目に入った。
大牙は頭をガリガリと掻くと、自分の着ていたワークジャケットを脱ぎ、彼女の肩へ無造作に掛ける。
「ほら。そんな薄着してたら風邪ひくだろ」
「……ん」
亜利亜は袖へ鼻先を寄せた。
「ガソリンくちゃい」
といい鼻を摘む亜利亜
「悪かったな」
苦笑する大牙。
すると亜利亜は、そのままジャケットへ頬を埋め、小さく鼻を鳴らした。
「……あと、煙草の匂いもする」
「あー……まぁ、吸うからな」
その時だった。
外で雷が鳴る。
ビシャアッ!! と窓ガラスへ激しい雨が叩きつけられた。
大牙は小さく息を吐くと、入口近くの壁へ寄りかかり、ポケットから煙草を取り出した。
一本くわえる。
カチ、とライターを擦ると、小さな火が夜色の瞳を赤く照らした。
じゅ、と煙草の先が燃える。
肺へ煙を落とし込む。
その熱だけが、自分をまだ人間側へ繋ぎ止めている気がした。
「……それ吸ってる」
「ん? あぁ。悪いクセだよ」
「おいしいの?」
「全然。クソまずい」
「じゃあなんで吸うの?」
「……知らねぇよ」
苦笑混じりに煙を吐く。
自分でも分からない。
落ち着くからか。
海の底の冷たさを忘れられるからか。
あるいは、身体の奥へ染みついた“向こう側”を誤魔化したいだけなのか。
煙が白く天井へ溶けていく。
すると亜利亜が、トコトコと近づいてきた。
大牙の真正面へしゃがみ込み、じっと煙草を見つめる。
「……わたしもやる」
「は?」
次の瞬間。
亜利亜は大牙の指の間から煙草をひょいっと奪い取った。
「おいコラ!?」
恐る恐る口をつける。亜利亜
一吸い。
数秒後。
「けほっ……!? にがっ……!」
「だから言っただろバカ!」
思わず吹き出す。
亜利亜は涙目のまま口元を押さえ、不満そうに大牙を睨んだ。
「舌、変になる……」
「子供が無理すんな」
笑いながら煙草を取り返す。
すると亜利亜は、大牙のジャケットの袖をそっと掴んだ。
「……でも」
「ん?」
ざあざあと降る雨の向こう。
亜利亜は少しだけ目を細め、小さく鼻を鳴らした。
「ガソリンの匂いと」
少し間を空け
「煙草の匂い」
そして、柔らかく笑う。
「……大牙の匂い、する」
その言葉に、大牙の指先が僅かに止まった。
赤く灯る煙草の火。
回り続ける乾燥機。
雨音。
自分の袖を掴む、細い指。
こんな何でもない夜が。
ずっと続けばいいと。
その瞬間だけは、今思うと本気でそう思ってしまう。




