いつか虹の橋を
16年前、我が家に迎えられた小さな命。
小学生の子どもたちが「絶対にお世話するから!」と拝み倒し、12月25日のクリスマスの日に、我が家は私と夫、二人の子どもたちに加えて、アプリコット色のトイプードルを迎えた。
5人家族になったのだ。
名前は子どもたちが「ココ」と名付けた。
生後2ヶ月のココは、小さな身体でピョンピョン、バタバタと動き回り、まるでぬいぐるみのようでした。
幼い頃、私は近所で飼われていた大型犬に追いかけられた経験があり、犬が得意ではなかった。
けれど、手のひらに乗るほど小さなこの子なら大丈夫かもしれない——そう思っているうちに、私は人生で初めて「犬が愛おしい」と思えるようになっていた。
お散歩やご飯、トイレの世話、病院。
子どもたちは約束通り、協力してココのお世話を続けた。
その微笑ましい姿に、私は「ココを迎えて本当に良かった」と心から思っていた。
——けれど、「絶対にお世話する」という子どもたちの約束は、長くは続かなかった。
子どもたちが中学生、高校生になると、部活や塾、友人との約束で忙しくなった。
ココとの時間は、学校から帰ってきて自分の部屋にこもるまでの、ほんの少しの間だけ。
散歩もご飯も、トイレの世話もしなくなった。
いつの間にか、お世話係はすっかり私の担当になっていた。
子どもたちに手がかからなくなった頃、私は近所のスーパーでパートを始めた。
サラリーマンの夫も日中は仕事で不在。
ココは家の中で一人、留守番をする時間が増えていった。
夕方、パートから帰ると、いつもココは全力で私を出迎えてくれた。
玄関のドアに近づくだけで感じる、扉の向こうの気配。
鍵を開けるのが少しでも遅れると、扉を内側からカリカリと引っかく音。
そしてフローリングを「タカタカタカッ!」と軽やかに鳴らす小さな爪の音。
「ただいまっ」
扉を開けると、私の足元へ飛びつき、しゃがみ込むと膝に乗って顔中を舐めまわしてくる。
『お母さん、寂しかったよ! お留守番頑張ったよ!偉いでしょ!』
言葉はなくても、まっすぐ向けられる愛。
二人きりの玄関で、私はその全身全霊の温もりを感じていた。
「寂しい思いをさせてごめんね」
だからパートが休みの平日は、ココと二人で一緒に過ごした。
お散歩に行ったり、お友達のワンちゃんに会いに行ったり、車で少し遠くの公園へドライブに行ったり。
『お母さん、見て見て!』
そう言わんばかりに、広い芝生を駆け回るココは何度も私を振り返った。
私も重い身体に鞭打って、ココの後ろを一緒になって走り回った。
幼稚園に通っていた頃の我が子が戻ってきたような、どこか懐かしく愛おしい時間だった。
夕飯を作っていると、足甲の上に「とん」とアゴを乗せてくる。
ずっしりとした温かい重み。
膝の上でヘソ天をしてお腹を撫でると、くすぐったそうに右の後ろ足をパタパタと蹴ったり。
どれもが宝物のような日々だった。
ココが15歳になった頃。
白内障で目は白く濁り、耳も遠くなった。
足腰も弱り、芝生を駆け回ることはなくなったけれど、草の匂いや、お友達のワンちゃんの匂いをかくのはまだまだ好きだった。
私が部屋を動くたびに鼻をクンクンと鳴らし、耳をピクピクと傾けて私の存在を一生懸命追おうとしていた。
「もっともっと、一緒にいたいよ」
心臓の薬を大好きな甘いおやつに混ぜて飲ませながら、私はココとの別れを意識せざるを得なくなっていた。
16歳。
私はパートを辞め、専業主婦になった。
ココの介護を優先するため。
1分1秒でも長く、ココと一緒にいたかった。
——あの日。
私は近所のスーパーへ買い物に行くため、ココを一人にしてしまった。
「30分だから、すぐに帰るからね」と言い聞かせて。
帰り道、突然のゲリラ豪雨と激しい雷に見舞われた。
胸を突く、嫌な予感。
私は雨の中を無我夢中で走った。
玄関を開けても、あの「タカタカタカッ」という出迎えの足音は聞こえなかった。
買い物袋を床に放り投げ、リビングへ駆け込む。
ココは、お気に入りのクッションから少し離れた冷たい床の上で、動かなくなっていた。
いつもはクッションから動かないのに、もしかしたら、雷に驚いて玄関まで私を迎えに来ようとしたのかもしれない。
『お母さん、苦しいよ』って、私を探してたのかもしれない。
一人きりの冷たい床の上で、私はあの子を旅立たせてしまったのだ。
「ごめんねココ! 一人にさせてごめんね……っ!」
冷たくなったココを抱きかかえて、何度も何度も謝った。
「一緒にいれなくてごめんね」
あの日、冷たくなっていくココの身体の奥にわずかに感じた最後の温もりを、忘れることなんてできるわけがない。
大切な思い出と、果てしない後悔。
私の時間はあの日、完全に止まってしまった。
あの日から、ココのいない静かなリビングで、私は一人過ごす時間が長くなった。
爪の音も、息遣いも聞こえない部屋。
写真の中のココは優しい眼差しで私を見つめている。
散歩用のリードには、まだあの子の香ばしいおひさまのような匂いが残っていた。
ふと気づくと、頬を涙がつたう。
「寂しかったよね、寒かったよね……」
胸に空いた大きな穴は塞がる気配もなく、何日も何日も涙が枯れることはなかった。
ある日の買い物帰り。
いつも通る路地の奥に、古びた喫茶店があるのが目に入った。
何度も通っていたはずなのに、そこに店があることすら今まで気づかなかった。
ココのいない家に早く帰る理由もない。
私は吸い込まれるように古い喫茶店の扉を開けた。
BGMも客もない、時が止まったような静寂。
気後れして引き返そうとした時、カウンターの奥から一人の青年が現れた。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
おとぎ話しから抜け出してきたような整った容姿に、艶やかな青い長髪の青年。
私は窓際の席へ腰掛けた。
「……どなたに、逢いたいのですか」
「え?」
「あ、違いましたか。失礼しました」
注文を聞くよりも先に、彼は確かにそう問うたのだ。
「逢いたい方がおられる香りがしたのですが……ご注文はいかがなさいますか?」
「あ、あの……コーヒーをください。ブラックで」
カウンター奥へ戻る彼の後ろ姿を見つめながら、頭の中で言葉が渦巻いた。
死んだココにもう一度逢いたい。
でも、そんなことが叶うはずがない。
数分後、温かいコーヒーを運んできた青年が、静かに私を見つめた。
「失礼ながら……やはり、逢いたい方がおられるのではありませんか?」
堰を切ったように、心の中の溢れる想いが口から飛び出していた。
「先月、愛犬が亡くなったんです。
16年ずっと一緒だった子で……あの子が逝った日、私、買い物に出てしまっていて。
最後の最後に、一緒にいてあげられなかったんです。
寂しがり屋の子だったのに、一人で旅立たせてしまった……
もう一度だけ、あの子に逢いたいんです」
初対面の若い青年に、恥ずかしげもなく泣きつく自分に気づき、ハッと我に返った。
「ごめんなさい、急にこんな変な話を……」
「その子のお名前は?」
青年はまっすぐ私の目を見つめて言った。
「毛色や特徴、好きだったクセなんかも教えていただけませんか」
「逢えますよ、もう一度だけ。私が必ず探してきますから」
彼の真剣な眼差しに嘘の色は全く無かった。
「……ココです。茶色のトイプードルで……」
私は夢中でココの特徴、仕草、くすっと笑えるクセや声色を話した。
半信半疑だった。
死んだ犬に逢えるわけがない。
けれど青年は、優しい眼差しで私の拙い思い出話にじっと耳を傾けてくれた。
やがて青年は静かに頷き、こう告げたのだ。
「ありがとうございます。必ず、ココちゃんを探してきます」
「え……?」
「来週の深夜、午前1時50分。
海沿いの廃病院へお越しください。
……ココちゃんをお連れします」
テーブルの上のコーヒーは、すっかり冷め切っていた。
◇
——約束の日。午前1時50分。
潮風が吹き抜ける海沿いの廃病院。
月光が差し込む病室で、青い髪の青年は窓際に佇んでいた。
「午前2時、ココちゃんが来ます。
……ですが、刻限は60秒間だけです」
古びた置き時計の秒針が、カチ、カチと重く響く。
午前2時00分00秒。
月光が一際に強く輝き、窓際に淡い光の粒が集束した。
光の粒の塊は、私が目で認識するよりも早く、一直線に私の足元へ飛びついてきた。
視界よりも先に、私の全身がその懐かしい重みと温もりを記憶していた。
「ココ……ッ!」
光が収まり、そこにいたのは——
目が白く濁る前の、かつて私をまっすぐ見つめてくれていたあの綺麗な黒い瞳と、フワフワに輝く毛並みに戻った、一番元気だった頃のココだった。
しゃがみ込み、膝に乗ってきたココを夢中で抱きしめる。
晩年は瘦せて骨ばっていた身体に、あたたかい「ドクドク」という力強い心臓の鼓動が蘇っていた。
溢れる涙で視界が歪む。
「(ごめんねココ! 一人にさせてごめんね……っ!)」
言葉を出そうにも、嗚咽で言葉にならない。
ココはちぎれんばかりにしっぽを振り、私の顔中を舐めまわした。
膝の上でひっくり返ったココのお腹を撫でると、ココは記憶と全く同じように、右の後ろ足をパタパタと愛らしく蹴った。
あたたかい。
生きてる。
あの子が、私の一番好きだったココが、今ここにいる——!
「あいだがっだ……ココ、逢いたかったよ……!」
嗚咽で潰れた声で叫ぶ私に、ココは満足そうに目を細めた。
留守番の寂しさも、突然の別れも、この子の中には最初から存在しなかった。
ただ「大好きなお母さんに逢えた」という喜びだけが、その体温から伝わってきた。
——午前2時00分50秒。
ココの身体が光の粒となって透け始めた。
ココは膝から降りると、少し後ろへ下がり、ワンッと可愛らしく一吠えした。
「…刻限は60秒間だけです」
ふと、青年の言葉が頭をよぎる。
お別れしなきゃいけない。
なんとなく、そう感じた。
その瞬間、窓から差し込む月光と光の粒が交差し、闇深い病室の壁に美しい「虹色のアーチ(光)」が浮かび上がった。
「ココ! また一緒に走ろうね! 待っててね……! ありがとう、ココ!」
ココは何度も振り返りながら、その虹の橋を軽やかに駆け上がり、虹色の光の中へ溶けていった。
あとには、香ばしいおひさまのような毛並みの匂いだけが残されていた。
呆然と立ち尽くす私に、青年が落ち着いた深い声で語りかけた。
「ココちゃんは、お友達を作るのがとても上手な子ですね。
虹の橋のふもとの草原で、お友達と楽しそうに走り回っていましたよ」
「私と目が合うなり、駆け寄ってきて私の服の匂いをずっと嗅いでいました。
すぐにココちゃんだと分かりましたよ。
……あなたの匂いが、私の服に少し残っていたのですね」
青年は優しく目を細めた。
「あの子は目が見えなくなっても、耳が遠くなっても、あなたの匂いだけはちゃんと分かっていた。
……あの日も、あなたが帰ってくる匂いがしたから、玄関へ出迎えに行こうとしたけど、途中でうとうとと眠くなってしまっただけのようです。
『お母さんが帰ってくるのが嬉しかったから、寂しくなんてなかったよ』と」
私はココが最期を迎えた日、お気に入りのクッションから離れていたことや、玄関に向かおうとしていたのではないかということは、この青年には伝えていなかった。
それを聞いた瞬間、胸の奥の固く結ばれた結び目が、ボロボロとけて涙となって溢れ出した。
「(ありがとう……ありがとう……っ)」
声にならず喉を鳴らす私に、青年は静かに微笑んだ。
「言ったでしょう。
ココちゃんを必ず探してくる、と」
◇
後日、どうしても彼にお礼が言いたくて、古い路地裏の喫茶店に向かった。
しかし、どれだけ路地を探してもあの喫茶店を見つけることはできなかった。
夫や子どもたちには「お母さん、ココがいない寂しさで夢でも見たんじゃない?」と言われる。
けれど、絶対に夢なんかじゃない。
あの体温も、あの香ばしい匂いも、パタパタと足を蹴る感触も、すべて本物だった。
胸に空いた穴は、まだ全部は埋まっていない、全て埋まることは無い。
でも、少しだけ小さくなった気がする。
罪悪感に苛まれていた日々は終わり、いつかもっと未来で、あの子に逢える日が楽しみに変わっていた。
自分の人生をしっかり生きて、いつか胸を張ってココに逢いに行く。
私の止まっていた時間は、あの日、あの海沿いの廃病院で、もう一度静かに針を進め始めたのだ。




