あかねさす青
世界最古の国際美術展、ヴェネツィア・ビエンナーレ。
無数のフラッシュが交錯する絢爛たる授賞式の壇上で、私はマイクを前に静かに頭を下げていた。
『最高賞である金獅子賞は、組木葵さんが受賞されました! 組木さん、今のお気持ちをお聞かせください!』
「……大変光栄でございます。このような賞をいただけたのは、私を支えてくださった多くの方々の温かい支援のおかげです。この場をお借りして、深くお礼申し上げます」
口から滑り出るのは、寸分狂いのない完璧で模範的な感謝の言葉。
(我ながら、素晴らしいスピーチだな……)
天才、巨匠、画聖。
人は私をそう持て囃す。
私自身、自分の圧倒的な才能と技術には絶対の自信があるし、「まあ私、天才だからねー」とおどけてみせる余裕だってある。
だが——金獅子賞を獲ろうが、世界文化賞の壇上に立とうが、私の描くキャンバスにはいつだって決定的な『何か』が欠けていた。
56歳。
絵を描き始めて、およそ半世紀。
とっくに飽きが来てもいい頃合いだ。
自分には情熱が足りないのだと、欠けている『何か』とは情熱なのだと、そう思い始めてからもう10年が経っていた。
だが、違う。
私の心には、まだ恐ろしいほどの執着と情熱が残っている。
描きたい、描き足りない、描いていたい。
それなのに、描いた絵にはいつも空虚な空白が残るのだ。
(……私、こんな賞が欲しくて絵を描いてたんだっけ……?)
授賞式の夜、私は数十年ぶりに夢を見た。
10代の頃の夢だ。
目の前には、楽しく、自由で、溢れ出る創造のままに塗られた一枚のキャンバス。
それは私一人のものではなかった。
隣には、19歳の若さでこの世を去った親友——朱音がいた。
——朱音にもう一度逢えたなら。
私のキャンバスに足りない『何か』の正体が、わかるかもしれない。
そんな折、常々聞いていた噂を思い出した。
——死者にもう一度だけ逢わせてくれる男がいる。
現実主義の私に言わせればナンセンスだ。
生きとし生ける物はすべて平等に死が訪れる。
死者は死者、生者は生者。
時間は一方向に進み、戻らない。
死んだ人間が蘇るわけがない。
バカバカしい嘘であると決めつけていた。
(ただ、珈琲を飲みに行くだけだ……)
しかし、ほんのわずかではあるが、心臓の鼓動が早くなり、いつもよりも歩くのが速くなっていることも自覚していた。
胸を突く衝動に突き動かされ、私は噂の場所へと向かった。
街の喧騒から隔絶された路地裏。
時が止まったような佇まいの小さな喫茶店。
重い扉を開けると、そこには一人の青年が立っていた。
透き通るような白い肌、細い手足、光を反射しない深い紺青の髪を一つに編み込んだ青年。
(なんだこいつは。店員には見えないが、エプロンをしているから店員だろう。なんだこいつは)
芸術家としての私の目が、彼の異質な『骨格の完璧さ』と『色彩の絶望的な冷たさ』を即座に感知する。
その佇まいは、生きた人間の血の通う色合いというより、暗がりに鎮座する古い石膏像や、完成された一枚の宗教画のように浮世離れしていた。
(美しいな……)
そして何より、彼の胸元で鈍く光るモチーフに私の視線は吸い寄せられた。
己の尾を喰らう蛇——ウロボロスのシルバーペンダント。
『永遠』や『死と再生』を意味する古代のシンボル。
使い込まれて擦れた銀の質感、繊細に刻まれた鱗の一粒一粒までが妙に美しく、まるで彼の存在そのものが「終わりのない時間」を体現しているかのようだった。
「……どなたに、逢いたいのですか」
フェイスの声は、古い木製カウンターの静寂に低く溶けた。
私は息を呑み、胸の奥に閉じ込めていた名前を絞り出した。
「朱音。……37年前に死んだ、私の親友に逢いたい」
「なぜ、彼女なのですか」
「私はね、世界の組木葵よ。名声も賞もぜんぶ獲った『天才』なの。……でもね、私の描く絵には何かが足りないのよ。彼女と過ごした10代の空気を思い出せば、その答えがわかる気がするの」
私の言葉を黙って聞いていたフェイスは、胸元のウロボロスにそっと指先を触れさせ、静かに告げた。
「……では、1週間後の深夜。午前1時50分に、海沿いの廃病院へお越しください」
——それからの1週間、私の頭の中は朱音のことで一杯だった。
中学校で出会い、高校、そして二年制の美術専門学校へと共に進んだ日々。
私は正確に物体の構造を捉える『形態把握』と『デッサン力』に長けていたが、絵の具を乗せると画面がどこか堅苦しくなった。
対する朱音は、直感的で天性とも言える『バルール(色彩の明暗・調和)』の感覚を持っていた。
彼女が一筆の「青」を置くだけで、死んでいた私の画面が一瞬にして息を吹き返すのだ。
『葵のフォルム(形)は本当に化け物ね! 一本の狂いもない骨格があるから、私の色も活きるのよ』
『ふふん、私天才だからねー。でも朱音の色のセンスには勝てないわ。二人で描けば、私たちは世界一になれるのにね』
お互いの才能を誰よりも認め合い、誇りに思っていた。
けれど19歳、専門学校の卒業制作。
F100号という巨大なキャンバスを前に、私たちは激しく衝突した。
私の引いた線の美しさを主張する私と、そこに強烈な原色を塗ろうとする朱音。
『もうあんたの絵の具なんて……!』と言い捨てて飛び出したのが、彼女を見た最後になった。
通り魔的な犯行だったそうだ。
学校からバス停までの大通り、後ろから何度も包丁で刺された。
犯人はすぐに取り押さえられたが、心神耗弱で不起訴になったという。
毎日一緒にいたのに。
あの時、一緒に帰っていれば。
そうすれば、私が代わりに……。
……ごめんなさい……。
——約束の当日。午前1時50分。
潮風が吹き荒れる海沿いの廃病院。
月明かりだけが差し込む破れた病室で、私はフェイスの傍らに立っていた。
「午前2時丁度に、あなたが逢いたいと願った方が1分間だけ現世に顕現します」
「伝えられなかったこと、伝えたかったことを……すべてその60秒に注いでください」
大きな置き時計の秒針が、カチ、カチと刻限を刻む。
午前2時00分00秒。
月光が一際に跳ね上がり、窓際に淡い光の粒が収束した。
そこに立っていたのは、あの日と同じ服を着た19歳の朱音だった。
「朱音……っ!」
37年ぶりの再会。
胸を詰まらせる私を見て、朱音は一瞬目を見開き——次の瞬間、お腹を抱えて大爆笑した。
「あはははは! ちょっと葵、なぁにそのシワ! すっかりおばあちゃんじゃない! ウケるんだけど!」
「失礼ね! これでも世界を震撼させてる『天才画家・組木葵』様よ? ちょっとは敬いなさいな!」
「はいはい、天才天才! ヴェネツィアの金獅子賞でしょ? 天国でも大ニュースになってたんだから!」
朱音は悪戯っぽく笑うと、昔と変わらないノリで手をひらひらと振った。
「で? 天才様が昔みたいに湿っぽく反省会でもしに来たの? 『あの時はごめん』とか『私の絵には何かが足りない』とかさ」
「……どうしてそれを」
「葵の考えることなんて、お見通しよ。でもね、そんな固い話はどうでもいいの。……ほら、描くよ!」
「え……? 描くって、1分しかないのよ!? それに画材だって何もないのに——」
「無くても大丈夫!」
朱音はそう言うと、廃病院の冷たい床にドサリと寝転がった。
「ほら、葵も並んで! 真っ白な天井をキャンバスに見立てて、心の中で創造して描くの!」
私は面食らいながらも、吸い寄せられるように朱音の隣へ寝転がった。
見上げる天井には、割れた窓から差し込む月光が白く広がっている。
「ほら、まずは天才組木葵様が形を決めなさいよ! 得意の形態把握でさ! 水平線を引きなさい!」
「っ……あ、こう……? 画面の下3分の1に、緩やかな曲線を引いて……」
「そう! じゃあ私はそこにバルール(色調)を合わせる! ただの青じゃないわよ、黄昏時の、朱色がじわっと溶け出すような深いインディゴ!」
朱音が指を滑らせる仕草をする。
その瞬間、私と朱音の脳裏に、かつて子供の時に一緒に描いていたスケッチブックの真っ白なページが開かれた。
二人で夜遅くまでアトリエに籠もり、木炭の粉で手を黒く汚した日々。
卒業制作のF100号の巨大なキャンバスを前に、お互いの絵の具をぶつけ合って笑い転げたあの合同展の空気——。
頭の中で、止まっていた最高の色が弾けた。
「あ……あぁ……っ!」
涙が溢れて、視界が歪む。
——午前2時00分50秒。
月光が強く照らし出し、朱音の身体が淡い光の粒となって透き通り始めた。
「あ、朱音……!」
私は気づいてしまった。
悟ってしまったのだ。
「……私に足りなかったのは、技術でも、情熱でもなかった」
溢れ出る涙を拭いもせず、私は隣で消えゆく少女に向かって叫んでいた。
「私は……絵が好きだったんじゃない! 朱音と描く絵が、朱音と過ごすその時間が、その空気が好きだったんだ……! なんだ……私、こんな簡単なことも忘れてたんだ……っ!」
ずっと探していた「失われたピース」。
それは、世界中のどんな称賛でも埋められない、彼女と二人で塗った「あの時間」そのものだったのだ。
光の粒となって消えかけている朱音は、愛おしそうに私を見つめ、いつもの誇らしげな笑みを浮かべた。
「……ふふ。当たり前でしょ。あんたと私の二人で、一人前なんだから」
透けきった手が、そっと私の頬を撫でるような気がした。
「じゃあね、葵」
「ありがとう、朱音……っ! 最高に、最高に楽しかった……!」
午前2時01分05秒。
月明かりが弱まり、病室には私と、静かに立つ青い髪の青年だけが残された。
冷たい床に横たわったまま、私は天井を見上げてクスリと笑った。
胸の中の空虚な穴は、温かい思い出の色彩で溢れかえっていた。
「——さよならは、言えましたか?」
「ええ……完璧な『さよなら』が言えたわ」
1週間後。
『世界最古の国際美術展、ヴェネツィア・ビエンナーレにて金獅子賞を受賞された組木葵さんの、緊急引退記者会見が始まります』
会場に集まった数百人の報道陣とフラッシュの嵐の中、私はマイクの前に立った。
『組木さん! 金獅子賞を受賞され、世界中から次の作品が熱望される中での突然の引退発表ですが、一体どういった心境の変化があったのでしょうか!?』
集まった記者たちの困惑の声を前に、私はおどけるようにいたずらっぽく微笑んだ。
「次の作品なら、もう描きました。ですが……これが天才・組木葵の最後の作品となります」
『最後……!?』
「心境の変化はありません。ただ、気付いたのです。絵を描くことは楽しく、私の人生そのものです。これからどう生きていくかも、何も決めていません。……けれど、私にとって絵を描くということは、10代の親友との大切な時間を思い出すための『手段』だったのです」
静まり返る会見場に向けて、私は晴れやかに言葉を紡ぐ。
「これからは、ただその大切な時間を一人で噛み締めるためだけに筆を持とうと思っています。……そうなれば、今までのように見せるための作品はもう描けない。だから、引退を決めました」
画壇を引退した組木葵の『最後の作品』は、世界の美術館関係者を大いに驚かせた。
それは、今までの彼女の代名詞であった精巧な形態把握や、驚異的なデッサン力で見る者を圧倒するスタイルとは大きく異なっていた。
描かれていたのは、河原の草原に寝そべった視線から見える、黄昏時の空。
どこか儚く、けれど圧倒的な温かさを孕んだ、青と朱のグラデーションが広がる夕焼け空であった。
アトリエの静寂の中、葵は絵筆を置き、キャンバスの右下に静かに題名を書き入れた。
『あかねさす』——古来より、眩しい日差しや紫、そして愛しい『君』にかかる枕詞。
あの日、朱音が私の世界に塗り重ねてくれた鮮烈な赤。
私の味気ない青い人生を、どこまでも優しく照らしてくれた眩しい光。
世界を驚かせるための作品なんかじゃない。
ただ、私の世界をあかね色に染めてくれた『君』へ贈る、最初で最後の返歌。
生涯の傑作と称されたその絵の右下には、小さな、けれどどこまでも晴れやかな文字でタイトルが刻まれていた。
『あかねさす青』——と。




