繋げなかった手
10年前の今日、じいちゃんが死んだ。
70歳だった。病気が見つかってからわずか1年。
すべての治療を拒否し、最後まで苦しみながら、息を引き取った。
その病気は、時に激痛を伴うものだったらしい。
じいちゃんは時折襲い来る猛烈な痛みに身を捩りながら、歯を食いしばって耐えていた。
現代の医学なら薬で治療できたし、せめて痛み止めを打つことだってできたはずだ。
けれど、じいちゃんは医者や看護師、そして娘である母さんの懇願すら頑なに拒んだ。
『いや、これが寿命だ。こういう運命なんだ』
医者や看護師と母さんが別室で話をする時、俺は病室でじいちゃんと二人きりになった。
そのときのじいちゃんはいつもの優しいじいちゃんに戻った。
温かくて、少しカサカサしたシワシワの痩せた手。
戦争の傷跡らしく、じいちゃんの腕の皮膚の中には小さな石が何個か入っていた。
痛くも痒くもないらしいが、触っているとなんだか落ち着く。
小さい頃からじいちゃんっ子だった俺は、その手に繋がれてどこへでも行った。
犬の散歩、畑仕事、近所の小さな商店街、休日の遊園地。
見上げればいつだって、眩しい笑顔と、ぬくもりのある大きな手があった。
5歳の時。
じいちゃんが入院した。
『お見舞いにいこうね』
お見舞いとかよくわからないけど、じいちゃんにまた会えるなら楽しみだ、そう思ったのを覚えている。
母さんに連れられて行った田舎の病院。
暗く長い廊下の突き当たり。
病室の奥のベッドにじいちゃんは横たわっていた。
元々痩せていた体は骨と皮ばかりになり、頬は痩せていた。
5歳の俺を支配したのは、大好きなじいちゃんに会えた喜びではなく、圧倒的な『恐怖』だった。
怖くて、怖くて、足が竦んで病室の入り口から動けなくなった。
『……そこにいるのは、健ちゃんか?』
弱々しく掠れた声。じいちゃんの声なのに、じいちゃんの声じゃない。
恐怖に呑まれた俺は、一言も返せなかった。
『……もう、生きていることに悔いはない』
じいちゃんがぽつりと漏らしたその言葉の意味が、幼い俺には理解できなかった。
いや、考えないように、記憶に、心に、蓋をしていたのだと思う。
それからの1年の記憶はほとんどない。
そして6歳になった年、じいちゃんは最後まで治療をすることなく、苦しみながら亡くなった。
最後まで、治療を拒んだ理由は誰にも明かさないまま。
あれから10年。
16歳になった俺・健二は、都市伝説のように語られる『死者と1分だけ逢わせてくれる男』の噂を聞きつけた。
じいちゃんに逢いたかった。
なぜ病気を治さなかったのか。
なぜあんな痛みを耐え続けたのか。
その理由を知りたかったからだ。
——午前1時55分。
海沿いの廃病院。
じいちゃんが死んだあの白い無機質な部屋を思い出して足が震えた。
『じいちゃんに会うんだ・・・。』
俺は自らの足に鞭を打って扉を開けた。
荒れ果てた病室の真ん中に、男が立っていた。
漆黒のコートを羽織り、深い紺青の髪を編み込んだ青年——織部フェイスというらしい。
「午前2時丁度に、あなたが逢いたいと願った方が1分間だけ現世に顕現します」
古い置き時計の秒針が、カチ、カチと静かに夜を刻んでいる。
「伝えられなかったこと、伝えたかったことを……すべてその60秒に注いでください」
半信半疑だった。
だが、彼の静謐な瞳は本気だと告げていた。
俺はじいちゃんに会ったら、必ず「どうして治療しなかったのか」と問い詰めると心に誓った。
——午前1時59分50秒。
「では、1分間だけです。後悔のないように」
フェイスの声とともに月光が一際に強く輝き、窓際に淡い光の粒が収束していく。
そこに立っていたのは、紛れもなくじいちゃんだった。
いつの間にか俺の背のほうが大きくなっていたけれど、見上げたあの笑顔も、シワシワの痩せた手も、思い出のままだった。
「じいちゃん、俺っ……!」
「……そこにいるのは、健ちゃんか?」
——午前2時00分02秒。
あの暗い病室と同じ、弱く掠れた声。
10年前のトラウマが蘇り、一瞬、胸が押し潰されそうになる。
「あ、あの、じいちゃん……」
「大きくなったなぁ。もう何歳や?」
「……16歳」
「そうか。ほな……神様も、ちゃんと約束を守ってくれたんやな」
「え……?」
思わぬ言葉に、俺は息をのんだ。
じいちゃんは懐かしそうに目を細め、静かに語り始める。
「健二は覚えてないかもしらんが、小さい頃、体が弱くてなぁ。
何度も入院して、息も絶え絶えになってたんや。
……だから、じいちゃん神様にお願いしたんや」
じいちゃんは、透けかけた己の手を見つめた。
「『儂がこれからどんなに痛くて苦しい思いをしても全部耐える。
だから、健二の病気を全部儂にくれ』ってな。
神様は返事こそしてくれへんかった……でもその後、すぐに儂の病気が見つかった。
こういうことかと思って、全部受け入れたわ」
「な……っ」
「あー、あんな痛くて苦しい思いは二度としたないわ!」
じいちゃんはあっはっはと笑った。
「でも、健二が16歳まで元気に育ったんなら、神様が約束を守ってくれた証拠や。
それだけがずっと気がかりやったからな」
「じいちゃん……っ!」
「なんや?
それが聞きたかったんやろ。
どうして治療を拒否したんか……その理由が」
頭を殴られたような衝撃だった。
だが——俺の心の奥底で、何かが溢れ出した。
そうだ。
俺が本当に知りたかったこと、伝えたかったことは…。
——午前2時00分40秒。
「……違うねん、じいちゃん!」
俺は叫んでいた。
溢れる涙を拭いもせず、ぐちゃぐちゃの顔で。
「じいちゃん、違うねん! 」
「俺、そんな理由が知りたかったんじゃない! 」
「もっと一緒にいたかった!」
「 もっと色んなところに連れて行ってほしかった!」
「 もっと長生きして……」
「もっともっと、手をつなぎたかった……っ!」
喉が引き千切れそうだった。
10年間、胸の底に閉じ込めていた叫びが溢れ出す。
「本当はあの日……病室で怯えたりしないで、じいちゃんの手をギュッと握ってあげたかった!」
「でも怖くなって…」
「 苦しみを少しでも和らげてあげたかった!」
「 大好きだよって伝えたかった」
「ありがとうってもっと言いたかった」
「じいちゃんってもっと呼びたかった……っ!」
——午前2時00分52秒。
月光が一際強く照らし出し、じいちゃんの輪郭が光の粒子となって崩れ始める。
「ありがとう……っ、じいちゃん……!」
じいちゃんは一瞬驚いたように目を見開き、そして——これまでで一番温かい笑顔を浮かべた。
「健二。
……もっかい、手ぇ繋いでくれるか」
「うん……!」
俺は夢中で手を伸ばし、崩れかけるじいちゃんの手を強く握りしめた。
その瞬間——温かな記憶の奔流が、頭の中に流れ込んできた。
じいちゃんに抱っこされた高い空。
粉ミルクの甘い匂い。
よちよち歩きの俺を転ばないように支えてくれた手のぬくもり。
肩車で見えた祭りの提灯。
そして——俺の記憶にはない光景。
病室の保育器で息を荒くする小さな俺の傍らで、ボロボロと涙を流すじいちゃんの姿。
古びた神社の境内で、土下座をするように額を地面に擦り付け、必死に手を合わせ続けるじいちゃんの背中。
そして、病室の入口で怯える5歳の俺——。
全部、伝わってきた。
じいちゃんがどれほど俺を愛してくれていたのか。
その痛みが、どれほどの愛の証明だったのか。
——午前2時01分05秒。
光が収束し、静寂が戻ってきた。
病室には俺と、闇の中に立つ青い髪の青年しかいない。
「——さよならは、言えましたか?」
静かな問いかけに、俺は腕で涙を拭い、フッと息を吐いた。
「言えなかった」
俺は崩れ落ちたまま、自分の右手のぬくもりを見つめた。
「……けど、俺の後悔も、じいちゃんの後悔も……失くせたと思う」
寂しさは消えない。
けれど、胸の奥にあった冷たい泥のような後悔は、綺麗に消え去っていた。
「本当は、治療しなかった理由なんてどうでもよかったんだ。
ただ生きていてほしかった。
ずっと一緒にいたかった……あの日、手を繋ぎたかっただけなんだ」
背後に立つフェイスは、何も言わずにただ静かに月を見上げていた。
その物憂げな横顔には、どこか遠い過去を懐かしむような、深すぎる哀愁が宿っていた。




