さよならの60秒
ザザン、と遠くで打ち寄せる波の音が、静寂に沈む部屋を揺らしていた。
海沿いの断崖に佇む、今は使われていない廃病院。
月光が割れた窓ガラスを通り抜け、床に白磁のような光の斑点を作っている。
「……本当に、彼女に逢えるんですか」
闇の中で、青年の声が細く震えた。
その視線の先に立っているのは、漆黒のロングコートを纏った青年——織部フェイス。
闇に溶け込むような深い紺青の髪を一つに編み込み、胸元で静かに光る蛇のペンダントに手を触れもせず、ただ静謐な瞳で依頼人を見つめている。
「……逢えますよ」
フェイスの声は、夜の海のように深く、感情の起伏を感じさせなかった。
「あなたが深く後悔し、強く願うのであれば」
小さな机の上に置かれた、年代物の古い置き時計が、カチ、カチと規則正しい刻みを打っている。
画面が指し示す刻限は、午前1時57分26秒。
「午前2時丁度に、あなたが逢いたいと願った魂が、1分間だけ現世に顕現します」
「伝えられなかった言葉、伝えたかった想い……すべてをその60秒に注いでください」
「1分間……たった、1分……」
青年は自分の両手を見つめ、固く拳を握りしめた。
——午前1時59分01秒。
青年の脳裏に、あの日々が走馬灯のように駆け巡る。
同じ会社、同じ営業部で苦楽を共にした、一つ後輩の彼女。
プレゼンで失敗し、自信を失っていた自分を、飾らない笑顔で励ましてくれたのは彼女だった。
仕事終わりに二人で入った居酒屋。酒の勢いに背中を押されて打ち明けた告白。照れくさそうに首を縦に振ってくれたあの夜。
付き合って三年。プロポーズを経て、夢にまで見た同棲生活が始まった。
だが、すれ違いは日常の影からじわじわと忍び寄っていた。
家事の分担、生活リズムのズレ、そして結婚の具体的な準備を引き延ばしてしまう自分の優柔不断さ。
『どうして私ばっかり焦ってるみたいになるの……?』
彼女の苛立ちは日増しに強くなり、自分もまた、連日の残業による疲れとストレスで心の余裕を失っていた。
あの日も、そうだった。
『もう顔も見たくない!』
心にもない暴言が、口をついて飛び出した。
彼女は一瞬、弾かれたように目を見開き——静かに俯いた。
『……わかった。出ていく』
『勝手にしろ!』
財布とスマートフォンだけを持ち、夜の街へ飛び出していった彼女の背中。
すぐに頭が冷え、言い過ぎたと後悔はしたものの、どうせコンビニか近くの公園にでもいて、すぐに戻ってくるだろうと高をくくっていたのだ。
それから、ちょうど一時間後。
静まり返った部屋に響いたのは、彼女のスマホからの着信音だった。
画面の向こうで声を上げていたのは彼女ではなく、荒い息吐く救急隊員。
『——事故です。信号待ちの歩道に、飲酒運転の乗用車が……』
即死だった。
病院で対面した彼女の冷たくなった手には、壊れたスマートフォンが強く握りしめられていたという。
——午前1時59分50秒。
「う……っ、うあぁ……っ……!」
押し寄せた罪悪感と痛みに耐えかね、青年はその場に崩れ落ち、ボロボロと涙を溢れさせた。
「泣くのは後です」
静かだが、刃のように鋭いフェイスの声が響く。
「涙で視界を濡らす暇はないはずです。たった今、60秒しか許されていないのですから」
直後、部屋を満たしていた月光が跳ね上がるように輝きを増した。
風もないのにカーテンがふわりと揺れ、光の粒子が収束していく。
そこに、立っていた。
あの日と同じ服を着て、少し困ったように微笑む彼女が。
午前2時00分00秒。
「あ……あ……っ」
「……久しぶりだね」
喉が詰まり、声にならない。溢れ出る涙で視界が歪む。
その瞬間、頭の中にフェイスの言葉がリフレインした。
『伝えたかった想いを、すべてその60秒に注いでください』
青年は溢れる涙を袖で強く拭い、絞り出すように言葉を紡いだ。
「ごめん! あんなひどいこと言って、ごめん……! 顔も見たくないなんて、嘘だったんだ! まさか、あんなことになるなんて思わなくて……喧嘩しても、ずっと変わらない日常が続くって、君の優しさに甘えてた……っ! 当たり前だって思ってたんだ……!」
彼女は優しく目を細め、静かに 首を振った。
「そうだね。私も同じだよ……あなたに甘えてた」
「家を出たら、すぐに走って追いかけて来てくれるって……どこかで思ってたの。お互い様なんだよ。似たもの同士、好きになったんだから」
彼女はそっと一歩を踏み出し、届かない手を青年へと伸ばす。
「でも、良かった。私は最後に、あなたへの想いを伝えられていたから。……あなたの口から、本当の気持ちを聞けて良かった」
「最後なんて言わないでくれ! これからも、ずっと……!」
「いい人を見つけて、幸せになってね」
彼女は悪戯っぽく微笑んだ。
「できれば……私にちょっと似た人がいいな」
午前2時00分50秒。
月光が一際強く二人を包み込み、彼女の輪郭が透き通り、淡い光の粒となって崩れ始める。
「あぁ……っ! いかないで……!」
「じゃあね。ありがとう。……さよなら」
「ありがとう! 僕と出会ってくれて、好きになってくれてありがとう……!」
青年は、透けていく彼女の影を抱きしめるように手を伸ばした。
「いつか、必ず……いつか君のところへ迎えに行くから……!」
「……さよなら!」
午前2時01分03秒。
光が収束し、静寂が戻ってきた。
残されたのは、遠い波の音と、古い置き時計が刻む重い秒針の音だけ。
「うぁぁぁぁぁっ……! ありがとう……ありがとう……っ!」
冷たい床に伏し、青年は子供のように声を上げて泣きじゃくった。
だがその顔には、先ほどまでの絶望と後悔はなく、ただ温かな感謝だけが残されていた。
青年の手から滑り落ちた、画面の割れたスマートフォン。
そのライトがかすかに点灯し、未送信のまま残されていた下書きメモを暗闇の中に浮かび上がらせていた。
『ごめんね、やっぱり一緒にいたい。今から帰るね。』
『本当はすぐに迎えに来てほしかったけど(P.S. 戻ったら仲直りのキスしてね)』
涙を流し続ける青年の背後に、静かに歩み寄る足音。
黒いコートを揺らし、立ち止まったフェイスは、月明かりの中で横顔を覗かせ——静かに問いかけた。
「——さよならは、言えましたか?」




