民俗学者ダリル・イズライール(1)
我々が生きるこの街の歴史——その華々しい正史の裏側には、決して光の当たらない「澱」のような記録が存在する。
我がイズライール家は代々、その忘却された伝承を拾い集めることで、知見を深め、住む場所を変えながらも、その街の片隅で確固たる地位を築いてきた。
私もまた先達の例に漏れず、祖父、そして父の背中を追い、厳格なる民俗学者としての道を歩んできた男だ。
我が家系の当主を継ぐにあたり、課された条件はただ一つ。
——歴代の先人たちが遺した、膨大な私家版の記録をすべて読破すること。
齢55にして、ようやく私はその莫大な古文書の海を泳ぎ切り、正式に「民俗学者ダリル・イズライール」の名を継承することを許された。
継承の証として、父から手渡された一冊の古びた書物を受け取った時、私の背筋には冷たいものが走った。
『イズライール白書』
その重厚な装丁を見た瞬間、私は半世紀前の記憶の底へと引き戻された。
あれは私が9歳の頃だった。
父と祖父の厳格な言いつけを破り、禁忌の扉を開けてしまった日のことだ。
書斎の奥、普段は絶対に立ち入りを許されず、窓すらない漆黒の小部屋。
そこに置かれた小さなテーブルの上で、静かに私を待ち受けていたのが、あの『イズライール白書』だった。
他の蔵書は書斎に綺麗に飾られているというのに、この書物だけが、まるで触れてはならない呪物のように部屋の奥深くに幽閉されていた。
——見てはならない。
全身の細胞が、ここから今すぐ立ち去れと危険信号を出していた。
戸惑い、躊躇し、幾度も自分にストップをかけた。
だが私は、内側から突き上げる圧倒的な好奇心の衝動に、どうしても打ち勝つことができなかった。
震える手でその表紙をめくる。
そこに記されていたのは、祖父のものでも父のものでもない、幾人もの異なる筆跡だった。
時代ごとに異なるインクの染み、使い古されて毛羽立った羊皮紙の質感。
それは数十年前、いや、何百年という途方もない歳月を跨いで、世代から世代へと言葉が紡がれてきた代物であることは一目瞭然だった。
乱雑な走り書きが多く、細部までは読み解けなかったが、ページをパラパラとめくった先で、私の幼い心を決定的に凍りつかせたものがある。
——一人の青年の外見について記した、異様な執念を感じさせる挿絵だ。
青く長い髪。
透き通るような肌。
そして、首元に光るウロボロスのペンダント。
どの時代の書き手も、その青年の特徴を克明に記そうと必死にペンを走らせていた。
だが、奇妙なことに、どのページも決まってこう締めくくられていたのだ。
『……どうしても、彼の顔が思い出せない』
——その瞬間だった。
背後で重い扉が軋み、私の頭上から叩き落とされたのは、祖父の狂気に満ちた怒号だった。
「何を勝手に……!」
私は謝罪を試みた。
いつも優しい祖父なのだから、許して下さるだろうと甘く考えていたのだ。
だが、祖父は私を問答無用で殴り飛ばした。
その後の数日間、私はまともに食事を摂ることも、椅子に座ることも許されなかった。
あれは私の人生における最初のトラウマであり、同時に、理性では決して説明のつかない「消えない好奇心」という毒を、私の脳裏に植え付けた決定的な事件だった。
時を経て齢55になり、父から正式にその白書を譲り受けた日、父は私にこう告げた。
「ダリルよ。
我が一族が命と引き換えに守り、記し続けてきたのは、あの青年の記録だ。
……だが、奇妙なことがある。
我々は彼を調査しようとするたび、記憶の輪郭が砂のように崩れ落ちていくのだ」
父が書き記した、その白書の最期のページ。
そこには、震える文字でこう綴られていた。
『……彼に会った。
間違いなく、あの青い髪の青年だ。
彼は静かに珈琲を淹れ、私の話を聞いてくれた。
だが、不思議なことに、店を出た瞬間から、私は何を話し、どこへ行ったのかの記憶が靄のようにおぼろげになっていく。
記録しようとしても、ペンを持つ手が拒絶する。
どうしても、彼の顔が思い出せない……』
ページをさらに遡る。
祖父の日記、曾祖父の手記、さらに古い時代の記録。
時代が変わり、文字の形式が変わり、街の様相がどれほど変貌しようとも、先祖たちの記録は例外なく同じ場所で途絶えていた。
「青い髪の青年を追った者たちは、例外なく記憶が曖昧となり、記録を残すことができなかった」——と。
ここで、子供の時には気づかなかった「強烈な違和感」に私は気づく。
何世代にもわたり、我が一族はこの青年のことを調べ続けてきた。
だが、記録に登場する彼は、一貫して「同じ青年の姿」のまま描かれている。
人間は歳を取る。
それは変えられない真理だ。
なのになぜ、何世代もの歴史を跨いだ記録の中で、その青年の容姿だけが一切変わらないのか。
「……不老不死? ふっ、まさかな」
無理もない。
私自身、生粋の現実主義者だ。
この世に不老不死の怪異など存在すると信じるほど、脳天気ではない。
「せいぜい、代々似たような特徴を持つ一族の末路か、あるいは同一人物に見せかけた巧妙な幻覚の類だろう」
——学者としての私の理性は、そう冷徹に結論づけようとした。
だが、どうだ?
何世代にもわたり、優秀な知識人たちがこぞって「記録ができない」という共通の現象に囚われ続けるなどということが、純然たる偶然で片付けられるとでも言うのか?
——滑稽だな。
私の辞書に、「説明のつかない不可解」を放置するという選択肢はない。
ここ何年も、真面目に定石通りの事実を記録することだけを生業としていた私の心は、もう長く踊ることを忘れていた。
しかし、この日。
9歳の少年の胸の奥でくすぶり続けた小さな火種は、50年の歳月を経て、一冊の古書を開いた瞬間に再び発火した。
いまやそれは、私の理性を焼き尽くさんとするほどの業火へと変わっていた。
人生を懸けてでも、解き明かしたい謎に出会えた。
いや、再会できた。
これが恋なのか?
恋に恋しているのか?
あの時見た青年の記録に恋をしていたのか?
もはや私にとって、書物に記された青年に向けられたのは”愛おしい”という狂った感情だった。
古い路地の噂。
海沿いに佇む廃病院の影。
——青い髪の青年。
お前は一体、何者だ。
会ってみたい。
その誇りと好奇心を賭けて、私は先祖たちが果たせなかった「禁忌の記録」を完成させる。
民俗学者ダリル・イズライール




