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生存率の刻印と、覚醒せし狩人

数時間にも及ぶ不安に心をすり減らされた末、ようやく玄関のチャイムが鳴った。


カオリは急いで玄関へ向かい、扉を開ける。


そこに立っていたのはジンだった。


ジンは三十代半ば。日頃から鍛えているため体格はがっしりとしており、知性と落ち着きを感じさせる鋭い顔立ちをしていた。弁護士という仕事の疲労から、目の下にはうっすらと隈が浮かんでいる。袖をまくったワイシャツ姿のまま、琥珀色の瞳で家の中を見回した。


静かに扉を閉めると、低い声で尋ねた。


「カオリ……ミナトの様子は?」


カオリは小さく息をつき、赤く腫れた目を伏せながら答えた。


「眠ってるわ……落ち着かせるために睡眠薬を飲ませたの。」


ジンは眉をひそめた。


「ただのいじめとは思えない。」


「こんな恐怖は、それだけでは説明できない。」


カオリは彼の腕をそっと掴み、震える声で言った。


「私にも分からないの……。」


「部屋に入った途端、鏡を椅子で何度も叩き割って……。」


「そして、『部屋中の鏡を全部片付けて』って泣きながら頼んできたの。」


「何か、とても恐ろしいものを見ているみたいだった……。」


重い沈黙が流れた。


ジンは二階にあるミナトの部屋を見上げ、静かに口を開く。


「よく聞いてくれ。」


「これは想像以上に深刻だ。」


「彼の心は深く傷ついている。」


「明日の朝、腕のいい精神科医を呼ぼう。」


「もう一人で抱え込ませるわけにはいかない。」


カオリは静かに頷いた。


だが、その瞳から恐怖が消えることはなかった。


論理と法律を信じるジンでさえ、この出来事だけは理解できなかった。


翌朝――。


淡い朝日がカーテンの隙間から部屋へ差し込む。


ミナトは全身の力が抜けたような体で目を覚ました。


まるで眠っている間も、魂が戦い続けていたかのようだった。


重い足取りで部屋を出て洗面所へ向かう。


そこには、鏡全体を厚い布で覆った母の姿遣いが残されていた。


優しさからの行動だった。


しかし、その光景はかえってミナトの胸を締めつけた。


蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗う。


そして顔を上げた、その瞬間だった。


右手のひらに――


青白く光る数字が浮かび上がっていた。


『95%』


ミナトの血の気が一気に引いた。


「……嘘だ。」


「幻覚だ……。」


「薬のせいだ……。」


何度も瞬きをする。


しかし数字は消えない。


まるで焼き印のように手のひらへ刻まれていた。


必死に擦る。


皮膚が赤く腫れるほど強く擦る。


それでも数字は消えなかった。


世界には何も見えていない。


だが、自分だけには確かに見えている。


洗面所を出ると、朝食の準備をしているカオリが微笑んだ。


「おはよう、ミナト。」


ミナトは右手をテーブルの下へ隠しながら席につく。


少し迷ったあと、小さな声で尋ねた。


「母さん……。」


「この手、何か見える?」


カオリは彼の手を見つめた。


何もなかった。


首を傾げ、不安そうに尋ね返す。


「何もないわよ?」


「どうしたの?」


「痛いの?」


ミナトはゆっくり首を振った。


(どうして……。)


(どうして誰にも見えないんだ……。)


その時だった。


ジンが部屋へ入ってきた。


スーツ姿のままだったが、表情にはいつもの余裕はなかった。


「おはよう。」


そう言って席につくと、静かに話し始める。


「ミナト。」


「昨夜ずっと考えていた。」


「今日、精神科医の先生に来てもらう。」


「君には、誰かに話を聞いてもらう必要がある。」


ミナトの表情が固まる。


「精神科医?」


「どうして?」


「俺は妄想なんかじゃない!」


「あれは全部、本当にあったことなんだ!」


ジンはスプーンを静かに置いた。


息子をまっすぐ見つめる。


その眼差しは、同情に満ちていた。


「ミナト。」


「地下室や死体、それに化け物……。」


「そんな話を、私たちは信じることができない。」


「そんなの、おかしい!」


ミナトは勢いよく立ち上がり、右手を突き出した。


そこには、彼にしか見えない『95%』が青く輝いている。


「見てくれ!」


「この数字だ!」


「95%だ!」


「見えないのか!?」


ジンとカオリは何もない手のひらを見つめた。


そして互いに悲しげな視線を交わす。


ジンは静かに言った。


「ミナト……もうやめるんだ。」


「それは幻覚だ。」


「心の傷が見せているものなんだ。」


その言葉を聞いた瞬間、ミナトの胸の奥で怒りと絶望が爆発した。


「違う!」


「俺は嘘なんてついてない!」


「全部本当なんだ!」


「なのに、どうして誰も信じてくれないんだ!」


彼は乱暴に学生鞄を掴むと、そのまま玄関へ向かった。


振り返ることなく家を飛び出す。


両親の言葉だけが、何度も何度も頭の中で響き続けていた。


まるで、自分の正気そのものを否定する判決のように。

 重い足取りで、しかし絶望にも似た強い決意を胸に、ミナトは学校へと向かった。


 もう勉強にも、将来にも興味はなかった。


 今の彼の頭を支配しているのは、ただ一つ――真実だった。


「もう十分だ……。答えがあるとすれば、あの鏡の中しかない。」


 かすれた声でそう呟く。


 誰にも気づかれない亡霊のように校舎へ入り、そのまま人気のない倉庫へ向かった。


 そこには、相変わらず埃と湿気の匂いが漂っていた。


 そして、あの黒い縁を持つ鏡。


 自分を地獄へ送り込んだ忌まわしき門。


 ミナトは鏡を両手で掴み、裏返して隅々まで調べ始めた。


 その時だった。


 古びた木製の枠の裏側に、隠されるように刻まれた文字を見つけた。


 目を見開き、震える指先で乾いた血のような色をした文字をなぞる。


 そこには、こう刻まれていた。


『この鏡を通じて異世界へ渡った者は、永遠の法則に従う。


 召喚者は一定回数以上死亡すると、完全なる死を迎える。


 それは異世界だけではない。


 元いた世界でも死に至り、その存在はすべての者の記憶から消え去る。


 存在した記録も、歩んだ人生も、最初から生まれなかったかのように世界から抹消される。』


 ミナトはその場に膝をついた。


 鏡が手から滑り落ち、鈍い音を立てる。


 ゆっくりと右手を見る。


 掌には、青白く輝く数字。


『95%』


「……つまり。」


 震える声が漏れた。


「これがゼロになったら……


 父さんも母さんも、俺のことを忘れるのか……?


 俺は……世界そのものから消えてしまうのか……?」


 次の瞬間。


 ミナトは狂ったように笑い始めた。


 乾ききった笑い。


 命の欠片すら感じられない笑い声。


 だが、それはすぐに嗚咽へと変わる。


 鏡を掴み、何度も床へ叩きつけた。


 しかし鏡には傷一つ付かない。


 まるで彼の無力さを嘲笑うかのように。


 やがて力尽きたミナトは倉庫を後にした。


 希望は完全に打ち砕かれていた。


 無意識のまま洗面所へ向かう。


 せめて冷たい水で、この胸を焼く恐怖だけでも洗い流したかった。


 だが、そのことを彼は知らなかった。


 廊下の曲がり角から、一人の少年が彼を見つめていたことを。


 タツヤだった。


 ミナトがトイレへ入っていく姿を見た彼の口元には、ゆっくりと邪悪な笑みが浮かぶ。


「やっとだ……


 ようやく借りを返す時が来たな、この野郎。」


 タツヤは男子トイレへ足を踏み入れた。


 照明は消え、冷たい闇が空間を支配している。


 洗面台の鏡は砕け散り、鋭い破片が床一面に散乱していた。


「ミナト!


 この野郎、出てこい!


 ビビって隠れてんじゃねぇ!


 一発殴るだけだ、それで帰してやる!」


 返事はない。


 聞こえたのは――背後からの重い呼吸だけだった。


 次の瞬間。


 首筋に冷たい感触が触れる。


 鋼ではない。


 鋭く尖ったガラス片だった。


 タツヤの全身が凍り付く。


 耳元で、死人のように感情のない声が囁いた。


「なあ、タツヤ。


 俺はもうすぐ、本当に死ぬ。


 あの数字がゼロになれば……


 記憶からも、この世界からも消える。」


 タツヤの喉が震える。


「な……何を言ってるんだ……?」


 ミナトは乾いた笑いを漏らした。


「そうだよな。


 父さんも母さんも同じことを言った。


 誰も真実を見ようとしない。


 みんな……盲目なんだ。」


 ガラス片を強く握り締める。


 そして突然、タツヤの腹を思い切り蹴り飛ばした。


 彼は情けない悲鳴を上げながら床へ転がる。


 ミナトはその上に立ち、冷たい眼差しで見下ろした。


「自分が強いとでも思ってたのか?


 お前はただの肉と骨の塊だ。


 弱さを隠すために、強者の仮面を被っていただけだ。」


 ガラス片をゆっくりとタツヤの顔の前で揺らす。


 その青い瞳には、まるで底のない闇が宿っていた。


 タツヤは涙を流しながら叫ぶ。


「頼む!


 許してくれ!


 もう二度とお前をいじめない!


 誰もいじめない!


 だから……殺さないでくれ!」


 ミナトはしゃがみ込み、ガラス片を床へ放り投げた。


 そして両手でタツヤの顔を掴み、無理やり自分の目を見させる。


 まるで獲物を逃がさない捕食者のような視線。


「もちろん、お前はもうやめるさ。


 だけど……


 毎日俺を思い出せ。


 この名前を忘れるな。


 黒須ミナトだ。」


 静かに歌うような声が、薄暗い空間に響いた。


「俺を見ろ――


 狩人の目を。


 お前はもう俺のものだ。


 逃げようとしても無駄だ。


 闇はもう、お前の逃げ道を飲み込んだ。


 震えているな。


 だが、誰も助けには来ない。


 俺の目を見ろ。


 そこに何が映る?


 鏡は嘘をつかない。


 あの鏡を見た瞬間から……


 お前の運命は、もう映し出されていたんだ。


 もっと近くへ来い。


 俺は……もう一人になりたくない。」


 そう言ってタツヤから手を離した。


 タツヤは完全に精神を崩壊させ、その場で震えることしかできなかった。


 ミナトが立ち去ろうとした時、タツヤはかすれた声で叫ぶ。


「お、お前は……


 化け物だ……!」


 ミナトは振り返らなかった。


 そのまま歩きながら、冷たく微笑む。


「違う。


 俺は……


 ただ狩人になっただけだ。」


 彼は再び倉庫へ向かった。


 今朝まで心を支配していた自殺願望は、もう消えていた。


 その代わりに宿ったのは、鋼のような意志。


(俺は諦めない。)


(消えたりしない。)


(あの世界で俺の存在を証明してみせる。)


(そして――)


(『黒須ミナト』という名前を聞くだけで、誰もが震えるようにしてやる。)


 鏡の前に立ち、冷たい表面へ右手を置く。


「全員に……


 俺の名前を覚えさせてやる。」


 次の瞬間。


 鏡が妖しく輝き始めた。


 そしてミナトの身体は静かに飲み込まれていく。


 再び、自らの地獄へ――。


 だが今度の彼は、もう獲物ではなかった。


 ミナトを飲み込んだ光の波紋が完全に消え去ると、倉庫の中は静寂に包まれた。


 まるで彼がそこにいた痕跡だけが、薄暗い空間に残されているかのようだった。


 その時――。


 倉庫の扉が、ゆっくりと慎重に開いた。


 姿を現したのは、小柄な男子生徒――カイトだった。


 ぼさぼさの茶色い髪に、恐怖で大きく見開かれた緑色の瞳。


 彼は好奇心からミナトの後を追ってきた。しかし、その好奇心は今や悪夢へと変わっていた。


 カイトはその場で凍りつく。


 視線の先には、黒い縁を持つあの鏡があった。


 鏡は今もなお、かすかで不気味な光を放っている。


「ど、どうして……鏡の中に入ったんだ……?」


 カイトは震える声で呟いた。


「こんなの……あり得ない……。早く逃げないと……誰かに知らせないと……」


 そう言って踵を返し、走り出そうとした――その瞬間。


 ギィ……


 ガラスとガラスが擦れ合うような、不快な音が倉庫中に響いた。


「……カイト……」


「……カイト……」


 カイトの足が止まる。


 心臓は戦太鼓のように激しく鳴り響いていた。


 冷たい汗が額を伝う。


 ゆっくりと振り返る。


「ま、まさか……今、鏡が……僕の名前を……?」


 言葉を言い終えるより早く――。


 鏡の表面に、一つの赤い手形が浮かび上がった。


 まるで鏡の向こう側から、血に染まった手で押し付けられたかのような、生々しい手形だった。


 それは脈打つように揺らめき、生きているかのような不気味さを放っている。


 まるで――誰かをこちらへ招いているようだった。


 逃げなければならない。


 そう頭では理解している。


 それなのに、カイトの足は勝手に鏡へ近づいていく。


 一歩。


 また一歩。


 恐怖に支配されながらも、彼は鏡の前まで歩み寄った。


 震える指先を、赤い手形へ伸ばす。


 そして――触れた。


 だが、そこにガラスの感触はなかった。


「えっ……?」


 次の瞬間。


 凄まじい引力が彼の腕を掴んだ。


「いやあああああっ!!」


 カイトは絶叫した。


 しかし、その悲鳴は闇に飲み込まれる。


 一瞬のうちに、細い身体は鏡の中へと引きずり込まれた。


 跡には何も残らない。


 鏡はゆっくりと光を失い、再び静まり返る。


 倉庫には、不気味な静寂だけが残っていた。


 まるで最初から、誰一人そこに存在していなかったかのように。


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