召喚者の終焉
ミナトとルナは静かな住宅街を抜け、オリミスの街の大通りへと出た。朝から人通りは増えており、街はすでに活気に満ちていた。
商人たちは大声で商品を売り込み、通りは行き交う人々や馬車であふれていた。焼きたてのパンの香りに、菓子や香水、香辛料の匂いが混ざり合い、街全体が生き生きと息づいているようだった。
ミナトはルナの隣を歩きながら、好奇心に満ちた目で周囲を見回していた。
しばらく沈黙が続いた後、彼は彼女に尋ねた。
「ルナ……君だけが家の外に出ているのか?」
ルナは不思議そうに彼を見た。
「どういう意味?」
ミナトは言葉を選びながら言った。
「ここに来てから、マリーやセリーヌやカイルが外に出るのを見たことがないんだ。ずっと家にいるのか?」
ルナの笑顔が一瞬だけ固まり、目がわずかに見開かれた。
「あっ……それは……」
彼女は答えを探すように口ごもった。
「実は……その……えっと……」
数秒間視線を落とした後、突然両手を打ち合わせた。まるで何か大事なことを思い出したかのように。
「あそこを見て!」
彼女はミナトの袖をつかみ、興奮した様子で引っ張った。
「オリミスで一番有名なお菓子屋さんよ!」
ミナトが反論する暇もなく、気が付けば色とりどりの菓子で飾られた木製の屋台の前に立っていた。
年老いた店主は微笑みながら二人を迎えた。
ルナは菓子を二つ買い、そのうち一つをミナトに差し出した。
笑顔で言った。
「はい、食べてみて。」
ミナトは不思議そうに彼女を見た。
「お金は払わなくていいのか?」
ルナは微笑みながら首を横に振った。
「これは私のおごりよ。」
彼は少し躊躇したが、受け取った。
「ありがとう。」
一口かじると、すぐに目を見開いた。
「美味しい……」
ルナは小さく笑った。
「だから言ったでしょ。」
二人は菓子を食べながら再び歩き始めた。
ミナトは空を見上げた。そして突然足を止めた。
何も言わず、ただ空を見つめ続ける。
その様子に気付いたルナが尋ねた。
「どうしたの?」
ミナトは空を指差した。
「あそこ……」
ルナは彼の視線を追い、まるで何もおかしくないかのように微笑んだ。
空には二つの太陽があった。
一つはもう一つより大きく、二つは並んで輝きながら街に暖かな光を降り注いでいた。
ミナトは唾を飲み込んだ。
「まだこの世界に慣れないな……」
そう言い終える前に――
近くの通りで大きな爆発音が響いた。
人々は慌てて振り返り、その場から離れ始めた。
ミナトとルナも群衆と共に走り、小さな広場へとたどり着いた。
そこでは二人の男が激しく戦っていた。
そのうちの一人が手を前に突き出すと、掌の前に燃え盛る火球が現れ、凄まじい速度で相手へと飛んでいった。
ミナトは目を見開いた。
「な……なんだ、あれは!?」
もう一人の男は飛び退いて攻撃を避け、その直後に複数の風の刃を放った。
風刃は地面を切り裂きながら飛んでいく。
攻撃のたびに閃光が走り、小さな爆発音が響いた。
ミナトは信じられないというように呟いた。
「これが……魔法の力なのか?」
数度の応酬の末、炎を操る男がついに相手へ直撃を与えた。
炎は相手の身体を包み込み、男は激痛の叫びを上げながら地面に倒れた。
だが勝者は喜んでいなかった。
突然背後を振り返った。
通りの先から、鎧を着た騎士たちが彼に向かって駆けてきていた。
一人が叫ぶ。
「止めろ!」
男は歯を食いしばると、騎士たちが追いつく前に路地へ飛び込み、そのまま逃げ去った。
ミナトは呆然とその場を見つめ続けた。
そして慌ててルナに向き直る。
「どうやったんだ!?」
彼は興奮した様子で自分の手を指した。
「手から火を出したんだぞ! どうやったらそんなことができるんだ?」
ルナは驚いたように彼を見た。
「マナを知らないの?」
ミナトは何度か瞬きをした。
「マナ?」
ルナは頷いた。
「マナはほとんどすべての生き物の中に存在するエネルギーよ。それを使えば魔法を放ったり、身体能力を強化したり、さまざまな技術を使ったりできるの。」
ミナトは真剣に聞き入った。
そして自分の手のひらを見つめた。
「ということは……」
ゆっくりと指を閉じ、拳を握る。
「俺にもマナがあるのか?」
短い沈黙が流れた。
ミナトは深く息を吸い込み、自信満々に拳を振り上げた。
「はあああっ!」
そして全力で近くの石壁を殴った。
静寂――
そして――
「いったああああああっ!」
彼は両手で拳を押さえながら飛び跳ねた。
「手が! 手が折れた!」
目には涙が浮かび、腫れ上がった拳に息を吹きかける。
ルナは一秒ほど彼を見つめ――
次の瞬間、大笑いした。
「ははははは! 何を期待してたの!?」
ミナトは涙目で不満そうに言った。
「魔法が出ると思ったんだ……」
ルナは笑い涙を拭いながら言った。
「マナを持っているからって、使い方を知っているわけじゃないの。長い訓練が必要なのよ。壁を殴るだけじゃなくてね。」
ミナトは恥ずかしそうに顔を赤くし、視線を逸らした。
その間もルナは思い出しては笑い続けていた。
黄金色の夕陽はゆっくりと地平線の向こうへ沈み、オリミスのまた一日が終わろうとしていた。長く伸びた影がミナトとルナの足元に絡みつくように揺れている。二人を包む沈黙は重く、まるで不吉な前兆のようだった。
ミナトは突然立ち止まり、戸惑いを含んだ小さな声で尋ねた。
「ルナ……一つ聞いてもいいか? 初めてマリーに会った時、彼女は俺の匂いが良いと言ったんだ。その時は意味が分からなかった。でも今は……何かおかしい気がする。」
ルナはその場で凍りついた。
彼女は地面を見つめ、肩を震わせた。
ミナトが扉に手を伸ばそうとしたその時、ルナは彼を振り返った。瞳には今にもこぼれ落ちそうな涙が浮かんでいた。
恐怖と後悔に満ちた声で囁く。
「私……本当にごめんなさい、ミナト……お願い、ここから逃げて! 手遅れになる前に……」
言い終える前に。
ギィッ――
鋭い音を立てて扉が開いた。
そこには青白い顔と冷たい微笑みを浮かべたセリーヌが立っていた。
「おかえりなさい。街はどうだった、ミナト?」
ルナの言葉を聞いたばかりのミナトはその場で固まった。
胸の鼓動が恐怖の太鼓のように鳴り響く。
喉を鳴らしながら答えた。
「よ……良かったです。たぶん……皆さんにはお世話になりました。ありがとうございます。」
しかしセリーヌは彼を行かせなかった。
人間離れした力で彼の手首をつかむ。
「どこへ行くの? マリーが待っているわ。あなたに会いたいそうよ。」
セリーヌは彼を暗い廊下へ連れて行き、その先の石造りの階段を下らせた。
そこは今まで存在に気付かなかった地下室へ続いていた。
扉が開いた瞬間――
ミナトは息を呑んだ。
部屋の中には腐敗した死体が山のように積み上げられていた。
昨日嗅いだあの死臭が充満している。
「な……なんだこれは!?」
ミナトが叫ぶより早く、カイルの拳が顔面に叩き込まれた。
続けざまに激しい蹴りが飛び、彼は床へ倒れ込む。
鼻と口から血が流れた。
ルナは部屋の隅で口を両手で覆い、涙を流していた。
何もできないまま立ち尽くしている。
マリーは彼の上に立ち、恐ろしいほど穏やかな笑みを浮かべていた。
ミナトは後ずさりしながら叫んだ。
「マリー! 何が起きているんだ!? 俺に何をするつもりなんだ!」
マリーは答えなかった。
氷のように冷たい指を彼の唇に当てる。
そして蛇のように甘い声で囁いた。
「あなたの匂いは本当に素敵ね、召喚者。」
ミナトは愕然とした。
「召喚者……?」
マリーは皮肉な口調で続けた。
「ずっと嘘をついていたのね。ただの村人だと言いながら、本当は別の世界から来た存在だったなんて。」
彼女は微笑む。
「知っている? 『召喚者』の血は、私たちに力と長寿を与えると言われているの。」
「やめてくれ……お願いだ……!」
ミナトは懇願した。
しかしマリーは身をかがめ、優しく彼の唇に口づけた。
次の瞬間――
鋭い牙が彼の舌に食い込んだ。
彼女はそれを噛み切り、冷淡に咀嚼すると、そのまま彼の顔へ吐き捨てた。
ミナトは声にならない絶叫を上げた。
血が滝のように口から流れ落ちる。
身体は激しく痙攣し、意識は闇へ沈んでいった。
そして最期の瞬間――
ミナトは真実を悟った。
最初からずっと――
自分は獲物だったのだ。
彼は目を閉じた。
静かに涙が頬を伝う。
脳裏に浮かぶのは元の世界での日々。
小さな部屋。
学校。
母親。
父親。
すべてが終わった。
二人の元へ帰ることすらできないまま。
かすれた声で呟く。
「母さん……」
「父さん……」
「ごめん……」
「さようなら、黒須ミナト。」
マリーはそう囁き、彼から離れた。
ミナトが息絶えた直後、セリーヌはルナの頬を激しく打ち、その首をつかんだ。
「二度と助けようなんて考えるな、この役立たず! 私たちの前から消えなさい!」
ルナは泣きながら逃げ出した。
マリー、カイル、セリーヌは長い牙を露わにし、ミナトの死体へ群がった。
その血を貪るために。
しかししばらくして――
三人は同時に動きを止めた。
マリーは失望と困惑を浮かべながらミナトの亡骸を見つめた。
「おかしいわ……彼は驚くほど膨大なマナを持っていたはずなのに。なぜ何の力も得られないの? なぜ私たちの血は変化しないの?」
やがて三人は部屋を後にした。
引き裂かれた死体だけを残して。
そして扉が閉まったその瞬間――
ミナトの亡骸が淡い光を放ち始めた。
その光は徐々に強くなり、やがて身体そのものが少しずつ消えていく。
まるで最初から存在しなかったかのように。
そして――完全に消滅した。




