温かいパンと、冷たい死
ミナトは苦労して立ち上がり、乱れた思考を必死にまとめようとした。
頭にはまだ鈍い痛みが残っていたが、青い瞳は周囲の景色をゆっくりと見渡していた。
街は活気に満ちていた。
広い石畳の道。
今まで見たこともない装飾が施された建物の外壁。
店先には木製の看板が吊るされている。
人々の服装は中世を思わせるものから、現代とはまったく異なる幻想的な衣装までさまざまだった。
馬に引かれた荷車が通りを行き交い、商人たちの呼び声が四方から響く。
焼きたてのパンと香辛料の香りが風に乗って漂っていた。
その時、ミナトの視線が一枚の看板に止まる。
彼はその場で固まった。
震える声で呟く。
「どうして……?」
看板に書かれた文字が、はっきりと読めた。
日本語でも英語でもないはずなのに。
眉をひそめ、小さく呟く。
「もしかして……異世界へ来た影響なのか。
言葉が理解できる……。
だから、あのウサギ耳の女性の言葉も分かったのか。」
考えをまとめようとした、その瞬間――
ぐぅぅぅ……
腹の虫が大きく鳴った。
ミナトは腹を押さえ、苦笑する。
「ずいぶん何も食べてないみたいだ……。」
温かいパンの香りに誘われ、彼は小さなパン屋へ入った。
小麦と焼きたてのバターの香りが店いっぱいに広がっている。
遠慮がちに店主へ声をかけた。
「パンを三つ、お願いします。」
短い髭を生やした中年の店主は微笑み、パンを三つ並べる。
「はいよ。」
ミナトはポケットから日本円の硬貨を取り出し、自信を持って机の上へ置いた。
店主は数秒間それを見つめた後、不思議そうに眉を上げる。
「……何だ、これは?」
一枚の硬貨を指で挟み、何度か裏返してから机へ戻した。
「この街じゃ何の価値もないぞ。」
ミナトの表情が固まり、顔から血の気が引く。
小さく呟いた。
「……日本円。」
店主は真面目な口調で言う。
「悪いが、パンを返してくれ。」
ミナトは恥ずかしそうに頭を下げ、ゆっくりとパンを返した。
顔は恥ずかしさで真っ赤になっていた。
店を出ようとした、その時。
「待ちな。」
店主の声が背中にかかる。
振り返ると、店主はもう詐欺師を見るような目ではなく、行き場を失った少年を見るような優しい目をしていた。
男は小さくため息をつく。
そして大きなパンを一つ、パンを三つ、それにジュースを一杯差し出した。
「持っていきな。」
ミナトは目を見開いた。
「でも……お金がありません。」
店主は穏やかに笑う。
「分かってる。」
ミナトは両手で食べ物を受け取った。
まるで宝物を抱えるように。
食べ始める前に、自然と頭を下げる。
「いただきます。」
店主は首を傾げた。
「何だ、その言葉は?
その仕草も。
お前の言葉も行動も、ずいぶん変わってるな。」
ミナトは照れ笑いを浮かべる。
「すみません……癖なんです。」
一口目を食べた瞬間、温もりが体中へ広がっていった。
食べ終えると、丁寧に頭を下げる。
「本当にありがとうございました。
この恩を、どう返せばいいですか?」
店主は笑った。
「手伝いたいなら、倉庫の小麦袋を整理してくれ。」
ミナトは力強く頷く。
「やります。」
◇ ◇ ◇
それから何時間も、ミナトは文句ひとつ言わず働いた。
小麦袋を運び、商品を整理し、店の床を掃除した。
やがて夕暮れが近づく頃。
店主は腰を下ろし、一息ついてから尋ねた。
「そういえば、お前の名前は?」
ミナトは答える。
「黒瀬ミナトです。」
店主は軽く笑う。
「クロセ?
この世界でも珍しい名前だな。」
ミナトは照れ笑いを浮かべ、それから尋ねた。
「もしよければ……
この街の名前を教えてください。
あまり土地勘がなくて。」
店主は少し不思議そうな顔をしたが、答えてくれた。
「ここはオリメスの街。
ノクシア王国の領地だ。」
ミナトはゆっくりと繰り返す。
「ノクシア……。」
その名を心に刻む。
自分が本当に、何も知らない異世界へ来てしまったのだと実感しながら。
その時――
ガシャァァン!!
店の正面のガラスが大きな音を立てて砕け散った。
ぼろぼろの服を着た痩せた青年が飛び込み、パンを何個もつかむと、そのまま逃げ出す。
店主が叫んだ。
「泥棒だ!」
ミナトは考えるより先に走り出していた。
◇ ◇ ◇
湿気とゴミの臭いが漂う細い路地を駆け抜ける。
やがて青年を袋小路へ追い詰めた。
青年は激しく息を切らし、その場に膝をつく。
涙が頬を伝い落ちた。
「お願いだ……
通報しないでくれ。」
震える声で続ける。
「弟や妹たちが……
もう何日も何も食べてないんだ。」
ミナトは立ち尽くした。
青年の目には嘘も企みもなかった。
あるのは、どうしようもない絶望だけ。
彼は昔の自分を思い出す。
誰にも助けてもらえなかった、あの日々を。
静かに息を吐く。
そして青年へ手を差し伸べた。
「大丈夫だ。」
かすかに微笑む。
「行って。」
青年は信じられないという表情で目を見開き、ミナトの手を取ろうとした。
しかし――
ドン……ドン……
重い足音が路地を震わせた。
二人は同時に振り向く。
そこには巨大な男が立っていた。
顔には無数の傷。
右腕は失われ、その代わりに巨大な斧が革ベルトと金属の鎖で固定されている。
男は冷たい目で青年を見た。
「邪魔だ。」
次の瞬間。
斧が振り下ろされる。
刃が閃き――
青年の首が地面を転がった。
胴体は力なく崩れ落ちる。
時間が止まった。
ミナトは目を極限まで見開く。
血飛沫が服と靴へ飛び散る。
唇が激しく震えた。
その場へ崩れ落ち、体はまったく動かなかった。
男はゆっくり近づく。
黄色く汚れた歯を見せながら笑う。
ミナトの手首を乱暴につかんだ。
骨が砕けそうなほど強い力だった。
男は笑う。
「なかなか可愛い顔じゃねぇか。」
さらに顔を近づける。
「奴隷市場で売れば、いくらになるかな?」
ミナトは必死にもがく。
だが逃げられない。
恐怖が全身を縛りつけていた。
その時――
空気が変わった。
静かな声が響く。
「すみません。」
「その子を放していただけますか?」
男が振り向く。
そこには一人の少女が立っていた。
腰まで届く長い黒髪。
不思議な静けさを宿した紫色の瞳。
血に染まった光景には似つかわしくない、穏やかな微笑みを浮かべている。
男は彼女を見るなり、大声で笑った。
「いい顔だ。」
気味悪く舌なめずりをする。
「その顔を切り取って、部屋に飾ってやる。」
男は勢いよく飛びかかり、斧を全力で振るう。
しかし――
少女の姿は消えていた。
男は驚いて目を見開く。
次の瞬間。
少女は男の真後ろに立っていた。
ゆっくりと手を持ち上げる。
爪が黒く鋭い鉤爪へと変わっていく。
そのまま男の背中へ突き刺した。
まるで布を貫くように、何の抵抗もなく。
男は絶叫する。
少女は男の血と生命力を吸い上げ始めた。
巨大だった体はみるみる痩せ細り、皮膚は骨に張り付き、干からびた死体のようになっていく。
数秒後。
男は完全に動かなくなった。
静寂が訪れる。
ミナトは目を離せなかった。
体は震え、息は乱れ、心臓は激しく鼓動している。
少女は静かに歩み寄る。
そして優しく手を差し伸べた。
「私の名前はマリー。」
柔らかく微笑む。
「あなたのお名前は?」
ミナトはしばらく彼女を見つめ、それから唾を飲み込んで恐る恐る手を伸ばした。
「黒瀬ミナト……です。」
軽く頭を下げる。
「助けてくださって、本当にありがとうございました。」
弱々しい笑みが浮かぶ。
感謝と戸惑いが入り混じった笑顔だった。
「このご恩は、一生忘れません。」
マリーはさらに一歩近づく。
そして――
少し身をかがめ、ミナトの匂いを嗅いだ。
ミナトは固まり、顔を真っ赤にする。
「えっ……何をしてるんですか?」
マリーは意味深に微笑んだ。
「とても素敵な香りがします。」
小さく首を傾げる。
「最初にあなたへ気づいたのも、その香りのおかげです。」
そして落ち着いた声で言った。
「これからは、ミナト。」
「あなたは私の庇護下です。」
ミナトは何度も瞬きをした。
困惑した表情で自分を指差す。
「えっ……俺が……あなたの庇護下に?」
マリーは静かに微笑む。
「生き残りたいのなら――
『はい』と答えてください。」




