第8話 公爵家からの約束の前夜
公爵家への出発を迎える翌朝を控えた最後の夜。
豪奢な屋敷の中では、明日手に入る莫大な援助金の使い道や身代わり工作の手はずを話している。
おとう様とおかあ様、アリアーネお姉様が宴のような高笑いを響かせて。
冷たい地下牢に、静かな足音が近づいてくる。
鉄の重い扉を開けたのは、見張り番の老兵士レオンさんだった。
「リリアお嬢様」
レオンさんは周囲を慎重に伺う。
汚れた大きすぎる作業着をまとって小さく丸まっているわたしの前でかがみ込む。
その手には小さな革の巾着袋と、湯気の立つ木彫りのカップが握られていた。
レオンさんは長い間、このグラーツ伯爵家に仕えてきた老兵士だ。
戦場で傷を負って、地下牢の見張りとなってからずっとこの悲劇を見続けてきた。
生まれた瞬間から忌み子の双子として暗闇に閉じ込められ、実の親や姉からゴミかドブネズミのように虐げられてきたリリア。
主の命令に従わねばならない無力さにレオンさんの心は苛まれていた。
こんな幼子を、酷く打ち据え冷遇を重ねられるのか。
アリアーネお嬢様が嘲笑いながらゴミ溜めへ蹴り捨てた手作りの人形。
明日の朝には、冷徹の公爵のもとへ身代わりとして売り払われるリリア。
できることといえば、見張りの目を盗んで温かい野菜スープをと届けることだけだった。
どんな嫌がらせを受けても、スープを受け取るときにありがとうと涙で汚れた顔で優しく微笑んでくれる幼いリリアの姿に、レオンさんは涙をこらえていたのだ。
「これをお持ちなされ。わしのなけなしの蓄えと、乾燥した干し肉です。そして、スープを飲みなされ」
レオンさんは革袋を、わたしの大きすぎる作業着のポケットに押し込んだ。
しわだらけの手はかすかに震えていた。
「リリアお嬢様。公爵様は冷徹などと恐ろしい噂ばかりささやかれております。噂というものは当てにならぬものです。あの伯爵様や奥様より恐ろしいお方などおりませぬ。わしは老兵ゆえ、この地下牢からお救いすることもできず申し訳ございませんでした。精霊様がこれほど集まるのは、リリアお嬢様のお心が清らかで温かいからです。公爵邸へ行かれたら、伯爵家のことなどすべて忘れ幸せをお掴みくだされ」
「レオンさん。謝らないで。スープ、とってもあたたかかったよ。ずっと忘れないよ」
わたしがカップを包み込むと、レオンさんは目元にしわを寄せ、泣きそうな顔で優しく頭を撫でてくれた。
「お気をつけて行っておいでなされ、リリアお嬢様。わしはあなたの幸せをお祈りしております」
スープを飲み干したのを見届けると、レオンさんは名残惜しそうに、決意を秘めた顔で闇の外へと戻っていった。
翌朝の薄暗い刻限。
重い地下牢の扉が力任せに開け放たれた。
入ってきたのは、見慣れぬ伯爵家の従者の男たちだった。
わたしは泥と油で汚れたぶかぶかの作業着を着たまま荷物のように強引に腕を掴まれて、地下室の外へと引きずり出された。
初めて目にする眩しい光。
待っていたのはあたたかな家族の送迎ではなかった。
屋敷の玄関前に、古いくたびれた馬車が停まっていた。
傍らで、おとう様、おかあ様、豪華なドレスを着飾ったアリアーネお姉様が、汚いものを見る目で見下ろしていた。
「最後まで見苦しい子。ボロ布のような作業着で公爵邸へ行くなんて、我が家の恥晒しね」
お母様はレースのハンカチで鼻を覆い冷たく言い放った。
「お母様。ぶかぶかの服に包まれてまるでドブネズミよ。本当にお似合いだわ」
アリアーネお姉様は扇子を口元に当て高笑いを響かせる。
「いいかリリア。おまえはいまから、アリアーネだ。身代わりとして、公爵様に悟られぬよう死ぬまで大人しく生きていくんだ。正体がバレて我が家に迷惑をかけたらその場で引きずり戻して殺してやるからな」
お父様の冷酷な脅しとともに、従者によって馬車の中へと乱暴に押し込められる。
重い扉が閉まり、冷たい視線が遮られた。
馬車が走り出す直前、窓の隙間から視線を移すと遠くの物陰でレオンさんが深く頭を下げて見送ってくれている姿が見えた。
「レオンさんありがとう」
「リリア、泣かないで。おいらたちがついてる」
ぶかぶかの作業着の袖の陰から、黄金色の光が溢れ出した。
光の精オリオンや風の精たちが、わたしに寄り添い小さな羽を必死に動かしている。
ポケットの中には、レオンさんがくれた巾着袋。
家族に見捨てられ、売り払われる旅路だ。
でも、わたしの周りには温かい愛があった。
「レオンさん、ありがとう前を向くね。精霊さん、新しいお家へ一緒に行ってね」
わたしは大きすぎる作業着の袖で涙を拭うと、大きく揺れる馬車の中で、力強く小さな胸を張った。




