第37話 王子の帰国
秋の深まりとともに、王立魔法学園を取り巻く空気は少しずつ、けれど劇的な変化を見せ始めていたのだった。
その兆しは、他ならぬリリアの存在そのものであった。
彼女は学園中でみそっかすと嘲笑され、容赦ない嫌がらせを受け続けようとも、決して誰かを呪うことなく、ただひたすらに誠実で佇まいも美しく過ごしてきた。
子犬ヴァイスを救ったあの温かな神聖魔法。
生徒が困っていると嫌な顔ひとつせず手を差し伸べる慈悲深さ。
そして何より、どれほど不当に扱われても損なわれない本物の気品と誇り。
ミーナの魅了の呪術に覆われていた生徒たちの目から、薄汚れた霧が少しずつ落ち始めていた。
「どうして私たちは、リリア様の清らかで健気な姿を蔑んでいたのかしら」
「ミーナ様は、聖女様と持て囃されているのに、自分に従わない者を排斥してばかりなのに」
リリアが灯し続けた小さな光は、波紋となって学園全体へと広がりを見せていた。
生徒たちの心を縛っていた魅了の霧を少しずつ押し返していった。
リリアの周りに、孤立していた側近たちの元婚約者たちをはじめ、疑問を抱いた生徒たちが自然と集まった。
彼女を守るかのように温かな光の輪を作り出していた。
その頃、公爵邸ではある切実な問題が持ち上がっていた。
子犬のヴァイスが、片刻たりともリリアのそばを離れようとしないことだった。
朝、リリアが学園へ登校するために馬車へ乗り込もうとすると、ヴァイスは切なげな声をあげる。
「くぅん、くぅん」
いまにも世界の終わりのような悲しげな声をあげ、ドレスの裾を小さな口で固く咥えて離さない。
リリアの部屋から一歩も出ず、彼女がいない間は差し出された食事すら喉を通らない。
重度のリリア依存の魔獣と化してしまった。
「ヴァイス、困ったわ。学園には連れて行けないのよ」
「くぅん、くぅん」
潤んだ赤い瞳で直視され、リリアも胸が押し潰されるような想いに苛まれる。
当主である兄も見かねて腕を組み、眉間にシワを寄せて頭を抱えていた。
「リリア、いくらお前の頼みでも学園に動物を連れ込むわけにはいかない。待てよ、学園の規則を公爵家の権限で改定させればいいのか。いや、さすがにそれは強引すぎるか」
兄は妹の悲しそうな顔に苦悩する。
結局、公爵邸の優秀な侍女長のマリアが助け舟を出した。
「リリア様の匂いが十分にしみついた愛用のブランケットですわ」
ヴァイスに与えることで、なんとか一時しのぎの妥協案が見つかった。
リリアの香りに包まれている間だけは少し落ち着いて帰りを待てるようになった。
リリアが帰宅した瞬間のヴァイスの歓喜の跳ね回りようと、片刻も離れない執着ぶりは相変わらずだった。
「リリアの愛を独占するあの白い生きもの、羨ましい。いや、リリアが笑顔ならそれでいいのだがな」
兄はヴァイスに強い嫉妬を覚えつつも温かく見守る。
リリアはヴァイスの愛くるしさに心癒やされる。
ヴァイスは、こうして過酷な学園生活を送るリリアの一番の心の支えとなっていった。
ある日の午後、大図書館の奥深くで、突然の別れが訪れた。
静かな木製テーブルの向かい側。
例の男性は、いつも静かに魔導書物を広げていた。
隣国の第二皇子が、一通の機密書状を握りしめ、険しい表情で身の回りのものを整え始めていた。
「リリア嬢、セリーヌ嬢。ここでの穏やかな時間も、一先ず終わりのようだ。本国から緊急の呼び出しが入ってね」
「緊急帰国ですか」
突然の知らせにリリアは驚き、寂しそうに翠の瞳を揺らした。
いつも静かに自分たちを見守り、的確な助言をくれた大切な恩人であった。
「ええ。隣国の政情に関する急な案件でね。いますぐ国へ戻らねばならなくなった。私自身も学園へ復帰できるかどうか現時点では分からない状態なんだ」
この静かな大図書館へ戻って来られないかもしれない。
そう告げる隣国の第二皇子の瞳には、苦渋と一抹の切なさが滲んでいた。
隣国の第二皇子はリリアの前へゆっくり歩み寄ると、静かに片膝を突き、彼女の細い手を優しく包み込んだ。
リリアもセリーヌも、その高貴で威厳に満ちた立ち振る舞いに一瞬息を呑む。
「君と過ごしたこの数か月、あの夏の湖畔での日々は、私の人生の中で最も輝かしい時間だ」
隣国の第二皇子は心からの慈しみと情愛を込め、リリアの瞳をまっすぐに見つめた。
「リリア。君の光は決して誰にも消すことはできない。この王国が君を不当に扱い、居場所を奪うようなことがあればどんな離れた場所からでも駆けつける。私はいつでも君を我が国へ迎え入れ、生涯をかけて幸せにする覚悟だ」
「殿下」
隣国の第二皇子は正体は伏せつつも、隠しきれない情熱的な誓いを残し、深く優雅なお辞儀をした。
急な帰国は忌々しい。
本国の体制を完全に整えておく好機とも言える。
リリア、次に会う時は君を本当の妃として奪いに来よう。
隣国の第二皇子は胸に密かな決意と哀愁を秘め、リリアたちに惜しまれながら疾風のように学園を後にし、自国へと緊急帰国していった。
学園を飛び出し、爆走を続けていた光の精オリオンの足音は、公爵邸の重厚な門を突き破ろうとしていた。




