第36話 真っ白な犬
学園を早退したリリアは、公爵家の紋章が刻まれた馬車に揺られ、静けさに包まれた公爵邸へと戻った。
そして、真っ先に温かなお湯と広々とした浴室へと足を運んだ。
優しく声をかけ、怯えさせないよう細心の注意を払いながら、泥と不浄で汚れていた小さな身体を丁寧に洗ってあげた。
やわらかく泡立つ薬草の泡を優しく洗い流すと、濡れて縮んだ湿った毛の下から現れたのは、美しいまるで雪そのもののような白銀の毛並みであった。
「とっても綺麗な毛並みね」
極上の布で包み込み、温かな風の魔導で丁寧に乾かしてあげた。
ふわふわの白い毛の中から覗く小さな瞳は、まるで最高級のルビーのように透き通った鮮やかな赤色をしていた。
「くぅん」
子犬は身体を拭き終えた後も、感謝を伝えるかのようにリリアの手のひらにあごを寄せ、嬉しそうに喉を鳴らした。
リリアのドレスの裾を小さな口でくわえ、彼女が部屋の中を移動しようとも、片刻たりともそのそばを離れようとしない。
リリアが膝の上に優しく抱き上げると、安心して小さく丸くなり、愛くるしい赤色の瞳でじっと顔を見つめ返した。
夕刻、公爵家当主である兄が、王宮での多忙を極める国政と強大な結界管理の執務を終え、過労で疲弊した身体を引きずるようにして帰宅した。
「ただいま、リリア。今日も一日、お前のことを想うだけで仕事がどれほどはかどったことか」
玄関で温かく出迎えたリリアの姿を見た瞬間、兄の足がピタリと止まった。
リリアの腕の中にすっぽりと収まり、彼女の胸元に親しげに顔をうずめている真っ白で赤い目の、明らかに只者ではない霊性高い生きものと目が合ったからであった。
「お兄様、お帰りなさいませ。あの、お願いがあるのです」
リリアは兄の前に少し緊張しながら進み出ると、腕の中の子犬を上目遣いでそっと抱え直した。
「今日、この子が学園の敷地内で怪我をして倒れていたところを見つけました。私の魔法で傷は無事に治したのですが、全然離れてくれなくて。お願いです、この子を我が家で飼ってもよろしいでしょうか」
リリアの可憐な上目遣いのおねだり。
それだけでも兄に対する破壊力は絶対的なものであったが、抱えられた子犬もまた兄に向かって可愛らしく声を合わせて見せたのだった。
「くぅん」
「なんだその白い生きものは。私の大切なリリアの腕の中に厚かましく収まりおって、羨ましい」
兄は、一瞬その子犬へ猛烈な対抗心と強い嫉妬を燃やしかけた。
だが、最愛の妹のあまりにも純粋で可憐なお願いを断るという選択肢など、最初から存在するはずもなかった。
「もちろんだとも、リリア。お前がそれを望むなら、我が公爵家で考え得る限りの最高の環境を整えよう」
「お兄様、ありがとうございます」
兄の快い許可を得て、リリアの表情が一気にパッと華やかに輝いた。
「そうだわ、この子に名前をつけなくちゃ。綺麗な赤い目と、真っ白な毛並み。まるで新雪の上にそっと咲いた苺みたい」
リリアは腕の中の子犬を愛おしそうに撫でながら、温かな微笑みを浮かべたのだった。
「あなたの名前は、ヴァイスにするね」
「わん」
ヴァイスは、自分の名前を完璧に理解したかのように元気にひと声吠えると、リリアの頬を嬉しそうに舐めた。
兄はすぐにでも職人や魔導技師を呼んで豪華な犬小屋を用意しようかと提案したが、ヴァイスはリリアの部屋から一歩たりとも出ようとはしなかった。
リリアが部屋の中を歩けばそのあとをトコトコと愛くるしく追いかけ、彼女がソファーに腰掛ければすぐさまその膝の上へと飛び乗った。
給仕のために近づくメイドたちに対しては少し身を引いてリリアのドレスの陰に隠れてしまう。
ヴァイスにとってリリアの隣だけが絶対に侵されない聖域だった。
その夜。
リリアがふかふかの天蓋付きベッドに入ると、枕のすぐ隣でヴァイスは当然のような顔でちょこんと丸まったのだった。
「ヴァイス、ここで一緒に寝るの」
「くぅん」
リリアの腕の上に小さなあごをそっとのせ、ヴァイスは安心しきった穏やかな顔で目を細める。
その愛くるしい温もりに包まれながら、リリアは優しく背中を撫でてあげた。
「ヴァイス、おやすみなさい」
リリアの胸元にぴたりと寄り添い、ヴァイスはすやすやと心地よい寝息を立て始める。
過酷ないじめと邪悪な魅了が渦巻く学園生活の合間に、公爵邸のリリアの部屋では何物にも代えがたい穏やかで優しい夜が訪れていたのだった。
しかし、リリアとヴァイスが平和で温かな夢の中へ落ちていた裏で。
学園を密かに飛び出し、一筋の激しい雷光となって爆走し続けていた光の精オリオンの足音は、ついに公爵邸のすぐ目と鼻の先まで迫っていた。




