第35話 傷ついた子犬
夏休みが明け、王立魔法学園に再び生徒たちの足音と喧騒が戻ってきた。
最上級生セドリック殿下。
ミーナの放つ魅了の毒は学園全体を覆い尽くし、校舎内には甘ったるい薄桃色の毒気と、リリアたちに対する露骨な蔑視が漂っていた。
セドリック殿下や側近たち、宰相の令息、騎士団長の令息、魔法省長官の令息たちの威光を傘に着た生徒たちは、すれ違いざまに口々に冷ややかな嘲笑を投げかけてくる。
「見なさいよ、あのみそっかすの公爵令嬢」
「聖女ミーナ様に対抗しようだなんて、本当にお里が知れるわね」
そんな苛烈な圧迫と冷たい視線の中でも、三年生となったリリアの佇まいはどこまでも静かで、凛としていた。
毎朝、泥や不快な言葉が刻まれた机をセリーヌと共に丁寧に拭き掃除し、一言の愚痴も漏らさずにまっすぐ前を向いて授業に臨む。
リリアの、過酷ないじめに晒されながらも誰も憎むことなく、誇り高く学び続けるの姿。
大図書館の奥深くで静かに身を寄せ合い、お互いを思い遣りながら懸命に課題に向き合う四人。
リリア、セリーヌ、セリーヌの婚約者、そして身分を隠した隣国の第二皇子の誠実な立ち振る舞いは、魅了の毒に侵されきっていない生徒たちの心を、少しずつ揺り動かし始めていた。
「ねえ、本当にリリア様は噂通りの悪い方かしら」
「どんなに酷いことを言われても、取り巻きの方々を睨み返したり、公爵家の権力を振りかざしたりなさらないわ」
休み時間の廊下や大図書館の近くで、小さなささやき声が少しずつ漏れ聞こえるようになっていった。
ある日の放課後、閲覧室で一人静かにペンを走らせていたリリアのもとへ、他クラスの女子生徒が恐る恐る声をかけてきた。
ミーナの甘い言葉に流され、リリアを遠巻きに嘲笑していた生徒の一人だ。
「あの、リリア様。失礼でなければこちらの古代語の解釈について、教えていただけないでしょうか。授業でどうしても分からなくて」
突然の問いかけに、リリアは一瞬驚いた。
すぐに可憐で温かな笑みを咲かせる。
「ええ、もちろん喜んで。ここの文章は、当時の王宮の言葉遣いが使われているので、この動詞を、調和と読むと、とても綺麗な意味に繋がるのよ」
嫌な顔ひとつせず、分かりやすく丁寧に教えるリリア。
女子生徒は、翠の瞳と慈愛に満ちた声に胸を打たれ、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。こんなに親切にしていただけるなんて」
魔法学年発表会でリリアが出したのは、大精霊のような華やかさのない小さな芽だ。
しかし、内に秘められた絶え間ない努力と、真の高貴さから生み出された本物の生命の光だった。
「リリア様の魔法、小さかったけれど、とても優しくて温かい光だったわ」
「ええ。健気で気品のある方をみそっかすだなんて、私たちどうかしていたのかもしれない」
最初はほんの僅かなさざ波に過ぎなかった。
リリアが虐げられながらも絶やさず灯し続けた光は、孤立していた元婚約者の令嬢たちや、学園の異様な熱狂に疑問を抱き始めた生徒たちを包み込み、確実にその輪を広げていた。
ある日の昼休み、テラスや食堂を追われたリリアとセリーヌは、広大な校庭の隅にある林の木陰で静かに昼食をとっていた。
林の奥の茂みがガサガサと揺れ、一匹の小さな影が這い出してきた。
「リリア様、見てください」
幼い子犬が、泥と血で毛並みが汚れきり、身体中に傷を負って現れた。
子犬はリリアを見上げると、怯えたように震えながらも、吸い寄せられるように足元へ力なく近寄ってきた。
リリアのスカートの裾に小さな頭を擦り付け、片刻も傍を離れようとしない。
「かわいそうに。痛かったね、大丈夫だよ」
リリアは胸を痛め、汚れも気にせずそっと子犬を抱き上げた。
彼女が優しく撫でながら祈るように手をかざすと、手のひらから小さく温かな芽の光がぽっと灯った。その柔らかな光が身体を包み込むと、子犬の痛々しい傷口は瞬く間に塞がり、怯えていた瞳に元気な輝きを取り戻していった。
すっかり元気を回復した子犬は、リリアの頬を嬉しそうに舐め回し腕の中から絶対に離れようとしない。
「リリア様、その子の傷、きれいに治りましたわ。でも、学園に置いておくわけにはいきませんね」
「うん。この子をこのままにしてはおけないわ。今日は早退して、屋敷へ連れて帰るね」
リリアはそっと子犬を身につけていたショールで包み込むと、セリーヌに見送られながら急ぎ学園を早退し、公爵邸へと連れて帰った。
リリアの小さな光が生きものの命を救い、芽が大きく成長していく。
陰で、ミーナの魅了による歪んだ支配には目に見えぬ亀裂が刻まれ始めた。




