第28話 暗闇の中の健気な決意
初夏の爽やかな陽気が満ちる。
野外魔誘導演習が終了した後も、聖女ミーナが王立魔法学園の空気に撒き散らす魅了の毒と悪意に満ちた嫌がらせは衰えるどころか、ますます陰湿で過激なものへとエスカレートしていった。
演習の場で見せつけられた魔導の評価の差を無慈悲な大義名分にした生徒たちからの冷遇は苛烈を極め、リリアの学園生活は常に理不尽な悪意の嵐に晒され続けていた。
ある朝の静かな時間、リリアが昇降口で下駄箱の扉を開けると、上靴の姿は綺麗に消え去っていた。
代わりに、泥水がたっぷりと染み込まされた雑巾とともに、「学園から出ていけ、みそっかす」と粗雑な筆跡で書かれた心ないの紙切れが雑に詰め込まれていた。
「どうなさったのかしら。上靴がないなんて、日頃の行いが悪いから精霊様に届かないのかしらね」
ミーナが取り巻きの男子生徒たちを引き連れ、くすくすと嫌らしい嘲笑を浮かべながら通り過ぎていく。
リリアは冷え切った靴箱の前にただ呆然と立ち尽くした。
「私がすぐに予備の上履きを借りてきますわ」
セリーヌが美しい瞳に怒りと焦りを潤わせながら、慌てて廊下へと駆け出してくれた。
さらに、学園内での嫌がらせはより悪質な暴力へとエスカレートした。
ある日の放課後、リリアが図書室での自習へ向かうため校舎の古い大階段を降りていたときのことだ。
魅了の呪術に深く毒された男子生徒の一人が背後から忍び寄り、すれ違いざまに不自然なほど強く衝撃を込めて背中を乱暴に突き飛ばしたのだった。
「きゃっ」
リリアの身体はバランスを大きく崩し、視界が恐怖に歪みながら回転して高い石造りの階段から転げ落ちていく。
「リリア、危ない」
髪の陰に潜んでいた光の精オリオンと無数の微小な精霊たちが即座に反応し、重力を相殺する風の衝撃吸収結界を幾重にも瞬時に展開したため、大きな怪我やすり傷ひとつ負わずに済んだ。
しかし、ドサリと踊り場に倒れ込んだリリアに対し、周囲の生徒たちからかけられたのは救いの言葉ではなく、冷ややかな嘲りの言葉であった。
「どんくさい公爵令嬢ね」
「本当に見苦しいわね、階段からもまともに降りられないなんて」
ミーナは階段の上から優雅に制服の裾をつまみ、冷酷な笑みを浮かべて喉を鳴らしていた。
「大丈夫です。私は全然平気だから」
リリアは制服のスカートについた埃を優しく払いながら、凛とした動作で静かに立ち上がった。
冷たくて暗い地下牢にいた頃に比べたら何でもないわ。ちゃんと温かいご飯も食べられるし、あたたかいベッドもある。
優しくしてくれるセリーヌさんもそばにいるもの。
心の中で自分に言い聞かせるように、小さな胸にそっと手を当てる。
五歳の頃、冷たい石畳の上で暴力と空腹に怯えていた暗い記憶。
それに比べれば、リリアにとってはどれだけ上靴を隠されようと、階段から突き落とそうと悪意を向けられようと、耐えられないことではなかったのだ。
大好きなお兄様の顔が頭に浮かぶ。
いま、お兄様は領地と国のために寝る間も惜しんで一生懸命働いているわ。
こんな下らないことで手を煩わせたり、ご迷惑をかけたくないの。
リリアのあまりにも健気すぎる決意だ。
兄を愛するがゆえに、彼女はどんな嫌がらせを受けても決して弱音を吐かず、公爵邸への連絡を固く拒み続けた。
しかし。
「リリアがいくら我慢しても、おいらはもう見てられないよ」
光の精オリオンがリリアのけなげに微笑む姿に堪えきれず涙をこぼし、怒りと悔しさで限界を迎えた。
「お兄さんに知らせるなと言われても、おいらが勝手にすべてを伝えに行く」
光の精オリオンは王立魔法学園の敷地を取り囲む強固な魔導結界の隙間を全力で突き破り、公爵邸へと向かって一筋の閃光となって一直線に飛んでいった。
愛しい妹の健気な我慢と、ついに動いた精霊の怒り。
王都の公爵邸では、過保護な兄が妹からの連絡をいまかいまかと飢え渇いた想いで待ちわびていた。




