第94話:二人の休日(後編)
映画館を出ると、夕方だった。
西の空がオレンジ色に染まっている。四月の日暮れは春の色をしていて、空気が甘くて、吸い込むと胸が少しだけきゅっとなる。
「歩こう」
「どこへ」
「どこでも」
特に目的もなく、二人で歩いた。品川の海沿いの遊歩道。風が気持ちいい。潮の匂い。
隣のエリオットは、白いシャツの袖を少しだけ捲り上げていた。手首の辺りに——あの火傷の痕が、微かに見えた。千回の実験の痕。
でも今は、隠していない。
§ § §
「ねえ」
「何だ」
「手」
差し出した。右手を。
エリオットが、少しだけ逡巡した。傷だらけの手を、差し出すことをためらうように。
「いいから」
私が取った。エリオットの手を。冷たくて、骨ばっていて、傷痕がざらついている。
でも、繋いだ瞬間——温かくなった。魂の契約のおかげか。二人の体温が、繋がった手から混ざり合う。
「手、繋いだの初めてだね」
「ああ。……初めてだ」
「四百年生きて?」
「四百年生きて。初めてだ」
胸が、じんわりと温かくなった。
この男の「初めて」を、全部もらっている。初めての笑顔。初めての涙。初めての手つなぎ。
「こんな日が、ずっと続けばいいのに」
ぽろっと出た。思ったままの言葉が。
エリオットが、繋いだ手を少しだけ強く握った。
「ああ。永遠に」
力強い声だった。
「永遠とか言うし」
「言う。四百年待った男だぞ。永遠くらい軽い」
「スケールおかしいって……」
でも、嬉しかった。
夕焼けの中で手を繋いで歩く。二十八年間、一度もしたことがなかった。そんな「普通」が、今ここにある。
§ § §
帰り道、電車の中。
エリオットは窓の外を見ていた。池袋の街並みが流れていく。
その横顔を、私はぼんやり眺めていた。
(幸せだな)
素直にそう思えるようになった。前世の恨みも、イケメンアレルギーも、自己評価ゼロも、全部消えて。残ったのは——この男との、穏やかな日常。
……でも。
ふと、違和感を覚えた。
エリオットの横顔が——ほんの一瞬、痛みをこらえるように歪んだ。
(気のせい?)
すぐに元のポーカーフェイスに戻った。私が見間違えたのか。魂の契約で繋がっているはずなのに、今の一瞬、何も流れてこなかった。
(……遮断された?)
意図的に。エリオットが、感情の共有をブロックした?
不安が、胸の底でちくりと刺した。
でも——エリオットはいつも通りの顔をしている。穏やかで、静かで。ポーカーフェイス。
「どうした」
「ううん。なんでもない」
気のせいだ。きっと。
今日は楽しかった。それだけでいい。
§ § §
——エリオット視点。
電車の中。奈々が眠りかけている。私の肩にもたれかかって。
右手が、痺れた。一瞬だけ。指先の感覚が消えて、すぐに戻った。
魔力の揺らぎ。
魂の婚姻契約を結んだことで、私の魔力は安定した——表面上は。
だが。
魔素のない世界に、高純度の魔力生命体を無理やり繋ぎ止めている。魂の契約は、私の存在をこの世界に固定するアンカーだ。
しかし、アンカーには負荷がかかる。
魔素のない空気を吸い続ける肺。魔力の通わない大地に立ち続ける足。ゼロの環境で百の出力を維持し続ける魂。
契約は——私を救ったのではなく、私の命を、彼女に繋ぎ止めたのだ。
代償として。
少しずつ。
確実に。
魂が——削れている。
§ § §
奈々の寝顔を見下ろした。
穏やかな顔だ。今日、水族館で笑っていた顔。ペンギンの前で「好き」を堪えていた顔(気づいていた)。映画館で私を叱った顔。
夕焼けの中で「ずっと続けばいいのに」と言った顔。
この顔を、曇らせたくない。
だから——言わない。
この体に起きていることを。
今は、まだ。
§ § §
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
夕焼けの中で手を繋ぐ二人。「こんな日が、ずっと続けばいいのに」「永遠に」
しかし、読者だけが知る真実——魂の婚姻契約の代償が、静かにエリオットの命を蝕み始めていた。
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