第95話:エピローグ——大団円
数カ月後。夏。
いつもの朝。六畳一間。
目覚まし時計が鳴る前に、目が覚めた。最近はいつもそうだ。朝が来るのが嬉しくて、体が勝手に起きてしまう。二十八年間の人生で、朝が嬉しいなんて初めてだった。
台所から、いい匂いがする。
トーストの香ばしい匂い。焼きたての卵の匂い。そして、コーヒーの匂い。
——エリオットが、朝食を作っている。
「おはよう」
「おはよう。今日はスクランブルエッグにした」
「ありがとう」
テーブルに座った。並べられたのは、スクランブルエッグ、トースト、サラダ、コーヒー。完璧な朝食。いつも通りの。
でも、「いつも通り」がこんなに幸せだなんて。
§ § §
窓の外は、夏の朝日が眩しい。セミの声が聞こえる。入道雲が青い空に浮かんでいる。
六畳一間は相変わらず狭い。でも、エリオットの空間拡張魔法のおかげで、中身は王宮レベルだ。最近はバスルームが温泉旅館みたいになった。どこまで拡張するつもりなのか。
るんすけは元気だ。花畑事件のトラウマからは立ち直ったらしく、毎日元気に部屋中を巡回している。最近、自分で充電ドックに戻れるようになった。エリオットの魔力を浴び続けた結果、学習機能が異常進化しているのかもしれない。
(この子、いつか喋り出すんじゃないかな……)
§ § §
身支度をして、玄関でヒールを履いた。
「行ってきます」
「気をつけて」
エリオットが、弁当箱を渡してくれた。今日の蓋のメモは——
『今日の会議の成功を祈る。帰りにアイスを買ってきてくれ。——E』
(アイスの要求が初めて入った)
少し笑った。この男も、欲しいものを言えるようになったのか。四百年間、自分の欲を全て後回しにしてきた男が。
「何味?」
「抹茶」
「了解」
ドアを閉めた。
廊下を歩いて、エレベーターに乗って、マンションを出た。
夏の朝日が眩しい。セミがうるさい。でも、空気が美味しい。
§ § §
仕事は順調だった。
WAGEプロジェクトは第二フェーズに入り、私は主任として三つのチームを束ねている。朝倉座長からの信頼も厚い。
同僚たちとの関係も良好。お昼に弁当を開けるたびに「今日のメモ何て書いてあるの?」とイジられるのには慣れた。
白峰さんの件は、裁判が進行中だ。弁護士からたまに進捗の報告がある。彼女は罪を全面的に認め、静かに刑期を待っている。面会には、月に一度行くようにしている。
前世の因果は、少しずつ——本当に少しずつ——浄化されていくのだと思う。
§ § §
定時で上がって、帰り道にコンビニで抹茶アイスを買った。
マンションの自動ドアが開く。エレベーターに乗る。五階で降りる。鍵を開ける。
「ただいま」
「おかえり。……アイスは」
「買ったよ。はい」
エリオットが、抹茶アイスを受け取った。
そのまま台所に立って、皿に盛り付けようとした。
「皿いらないでしょ。棒アイスだよ」
「このまま食べるのか」
「このまま食べるの」
エリオットが、おそるおそるアイスの袋を開けた。抹茶アイスバーを手に持って、一口齧った。
蒼い目が、わずかに見開かれた。
「……美味しい」
「でしょ」
「冷たい。甘い。そして苦い。三つの要素が同時に——」
「味のレビューしなくていいから」
二人で、アイスを食べた。エリオットは一本を十分かけて食べていた。遅い。でも、一口ごとに小さく頷いているのが可愛かった。
§ § §
夕食後。
ソファに並んで座った。テレビでニュースを見ている。
るんすけがテーブルの下を巡回して、私たちの足元で「ぴこ」と鳴いて止まった。いつもの日課。二人の無事を確認する巡回。
「ねえ」
「何だ」
「幸せだね」
エリオットが、少しだけ私を見た。
「……ああ」
「前世では、こんな日が来るなんて思わなかった。処刑台の上で、最後に見たのがあんたの冷たい顔で。次に目が覚めたら路地裏の赤ん坊で。施設で二十八年。ブラック企業で六年。ずっと、幸せって何のことかわからなかった」
「……」
「でも今は、わかる」
テレビの光が、二人の顔を照らしている。
「こういうことだったんだ。朝起きて、いい匂いがして。仕事行って、帰ってきて。アイス食べて。テレビ見て。隣に誰かがいて。……こういう、何でもない日常が、幸せだったんだ」
エリオットの手が、そっと私の手を取った。
冷たい手。でも、前より少しだけ温かい。
「同感だ」
短い言葉。でも、この男の「同感」には、四百年分の重みが乗っている。
「これからも、よろしくね」
「ああ。これからも」
テレビの中で、お天気キャスターが明日の天気を告げている。晴れ。最高気温三十二度。猛暑日。
エリオットが、小さく息を吐いた。
「暑いのは……苦手だ」
「異世界の人も暑いの苦手なんだ」
「亜空間には温度がなかったからな。この世界の夏は暴力的だ」
「エアコンあるでしょ」
「エアコンは偉大な発明だ。異世界に持ち帰りたい」
「持ち帰らないで」
§ § §
夜が更けた。
テレビを消して、歯を磨いて、パジャマに着替えた。
最近は——二人とも布団で寝ている。エリオットのソファ生活は、ようやく終わった。
隣に横になる。エリオットの呼吸が聞こえる。静かで、規則正しい。
魂の契約を通じて、彼の感情がうっすらと流れてくる。穏やかだ。今日一日の記憶——水族館でクラゲを見た日のことや、初めて手を繋いだ夕焼けのことが、万華鏡のように回っている。
(幸せなんだな。この人も)
目を閉じた。
明日も仕事。明後日も仕事。来週も、来月も。
でも、毎朝この匂いで目が覚めて、毎晩この温もりの隣で眠れるなら——それだけで、充分すぎる。
限界OLと最強の専業主夫の、この上なく幸せな日常。
前世の因果は全て清算された。四百年の孤独は終わった。二人の魂は、もう離れない。
——この幸せが、明日も、明後日も、ずっと続いていく。
私は、そう確信していた。
§ § §
——完——
§ § §
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
第3部、完結です!
処刑台の真実、四百年の告白、魂の婚姻契約——全ての嵐を乗り越えた二人の、穏やかで幸せな日常。抹茶アイスを二人で食べる夕暮れ。並んで眠る夜。
「こういう何でもない日常が、幸せだったんだ」
……そして、物語はここで一つの区切りを迎えます。
「あの日」の続きは、またいつか、どこかで。
ここまで二人の歩みを温かく見守ってくださり、本当にありがとうございました。
皆様の日常も、抹茶アイスのように甘く、穏やかなものでありますように。
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