第91話:新しい関係(前編)
四月。
桜が満開だった。池袋の街路樹が薄桃色に染まって、通勤途中の私の上にひらひらと花弁を散らす。
春だ。
季節も、私の人生も。
§ § §
出社した。
主任として、いつも通りの仕事。プロジェクトの進行管理。書類のチェック。会議の仕切り。
何も変わっていない——はずなのに。
「小松さん」
朝倉座長が、不思議そうに私を見ていた。
「はい?」
「なんというか……顔が変わりましたね」
「え?」
「前から変わった前から変わったとは言ってましたけど、今朝は更に——何か、憑き物が落ちたような」
(憑き物。間違ってはいない)
四百年分の因果が消えたのだ。前世の恨みも、イケメンアレルギーも、自己肯定感ゼロの呪縛も。全部、あの六畳一間の魔法陣の上で溶けた。
「最近、いいことあったんですか?」
「まあ……ちょっと」
「彼氏ですか」
「えっ。いや、その——」
「顔に書いてありますよ」
朝倉座長が、眼鏡の奥で笑った。
(顔に出てるの? 二十八年間の鉄壁ポーカーフェイスが?)
——嘘でしょ。私のポーカーフェイスはあの男の隣で鍛え上げたのに。
§ § §
昼休み。
弁当を開けた。
エリオットの手作り弁当。今日は鮭の塩焼きと、卵焼きと、きんぴらゴボウ。完璧な和食弁当。蓋の裏にメモが貼ってあった。
『今日は気温が下がる。上着を忘れずに。——E』
(『E』って何。イニシャルで署名するの今どき)
でも、口角が上がるのを止められなかった。
向かいの席の同僚が、こっちを見ている。目がキラキラしている。嫌な予感しかしない。
「小松さん、そのお弁当——」
「手作りです」
「自分で?」
「……同居人が」
「彼氏じゃん!!」
「違——同居人——」
「お弁当にメモ入ってるの見えてましたよ!! 『E』って誰ですか!!」
「声大きいって!!」
昼休みの執務室が、一瞬だけ華やいだ。
——これが、普通の日常か。
ブラック企業で潰されかけていた頃には、想像もできなかった風景だ。
§ § §
定時退社した。
帰り道、桜並木の下を歩いた。花弁がひらひら。風が柔らかい。
マンションに着いた。鍵を開けた。
「ただいま」
「おかえり」
エリオットが、台所に立っていた。エプロン姿。銀髪をゆるく一つに結んでいる。
(かっこいい)
素直にそう思えるようになった自分が、少し恥ずかしかった。
「夕飯、何?」
「肉じゃがだ。昨日、レシピを検索した」
「検索って……スマホ使えるようになったの?」
「基本的な情報端末の操作は習得した。ただし、このデバイスの広告表示は攻撃魔法だと思っていた」
「ポップアップ広告のこと?」
「ああ。閉じるボタンが異常に小さい。明らかに悪意のある設計だ」
「それはメチャクチャ同意する」
§ § §
夕食を食べながら、何気なく聞いた。
「ねえ、私たちって——今、なんなの?」
エリオットの箸が止まった。
「なんとは」
「関係性の話。恋人? 夫婦? 同居人?」
「魂の婚姻契約を結んだ以上、定義としては——」
「定義じゃなくて。あんたの言葉で」
エリオットが、しばらく考えた。
「……伴侶」
「伴侶」
「重いか?」
「重い。でも——ちょうどいい」
(この男の『ちょうどいい』は、普通の人の『重すぎる』だけど)
もう慣れた。この圧倒的な重さに。
割れない重さだ。潰れない重さだ。限界OLのキャパシティを、ちゃんと測ったうえでの——ギリギリの重さ。
「じゃあ、伴侶で」
「ああ」
「よろしくね、伴侶」
「……ああ。よろしく」
エリオットの耳が、うっすらピンクになっていた。
見逃さなかった。
§ § §
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
憑き物が落ちた奈々の、新しい日常。お弁当のメモ、同僚のイジり、桜並木の帰り道。
そして二人の関係は——「伴侶」。重くて、でもちょうどいい。
フォロー・応援(♡)・★での評価が、続きを書く力になります!
感想・コメントは全件お返事します。「お弁当にメモ入れるエリオット最高」「ポップアップ広告は攻撃魔法www」「伴侶って言葉選びが良すぎる」「耳だけピンクなの可愛い」なんでも嬉しいです!




