第90話:魂の婚姻契約(後編)
——光の中にいた。
蒼い光じゃない。もっと温かい、金色の光。太陽みたいな。朝日みたいな。
体がない。足元も見えない。上も下もない。ただ、光の中を漂っている。
(ここ……どこ?)
死んだのか。また? 前世に続いて二回目? さすがに二度目の死は勘弁してほしい。
でも、痛みはなかった。温かくて、柔らかくて、どこかで嗅いだことのある匂いがする。
——朝ご飯の、匂い?
フレンチトーストの匂い。焼きたてのパンとバターの甘い香り。エリオットが毎朝作ってくれる、あの味の記憶。
(ああ、これ——エリオットの記憶だ)
§ § §
光の中で、景色が変わった。
暗い路地裏。雨が降っている。石畳の上に、痩せこけた子供が倒れていた。
——エリオット?
小さい。十歳くらいか。銀色の髪はぼさぼさで泥だらけ。服はぼろぼろ。腕には痣がある。殴られた痕だ。
(これが……スラムにいた頃のエリオット……)
子供の目は虚ろだった。雨に打たれながら、もう動こうとしない。諦めた子供の目。世界の全てに裏切られた子供の目。
胸が、締めつけられた。
——この子を助けたい。
反射的にそう思った。でもこれは記憶だ。過去の映像だ。手を伸ばしても届かない。
でも、わかった。
この路地裏に、いつか「未来の私」が来るのだと。この子を助けて、「あなたは世界で一番立派な魔法使いになるのよ」と励ますのだと。
四百年分の感情が、それを教えてくれた。
§ § §
景色が、また変わった。
宮廷。噴水のある庭園。陽だまりの中で、若い魔術師が本を読んでいる。
エリオットだ。宮廷魔術師になったばかりの頃。まだ少し若くて、でもあのポーカーフェイスはもう完成している。
その横を、金髪の少女が通り過ぎた。
——カレンシュ。前世の私。
十四歳くらい。まだ子供っぽい顔。でも、背筋だけはぴんと伸びている。伯爵家の令嬢としての誇り。
少女が、エリオットの方を見た。
「ねえ、あなた。筆頭魔術師の方でしょ? 帳簿の計算、手伝ってくれない? 人手が足りないの」
——ただ、それだけ。
それだけの言葉で、この男の四百年は決まったのだ。
(そんなことで……)
でも、わかった。わかってしまった。
エリオットの感情が、今、私の中に流れ込んでいるから。
あの瞬間——「化け物」でも「道具」でもなく、ただの「人間」として声をかけてもらえた瞬間の、あの——
言葉にならない。
感謝とか、喜びとか、そんな軽い言葉じゃ全然足りない。
魂が震える、というのはこういうことなのだと、初めて理解した。
§ § §
記憶が加速した。
宮廷の日々。一緒に帳簿を読んだ夜。お茶を淹れた昼下がり。うどんを差し出した手の温もり。
逮捕の報。地下牢。拷問の手順書。世界が赤く染まった瞬間。
二日間の禁術解析。寝ずに、食べずに、寿命を削って。
処刑台。あの日の雨。鎖の音。群衆の罵声。
そして——光。
自分が撃った光の中で消えていくカレンシュの目。恨みの目。
(痛い——)
エリオットの痛みが、直接流れ込んでくる。四百年分の。
あの目を、四百年間、一秒も忘れられなかった男の痛みが。
§ § §
亜空間。
闇。虚無。何もない。三畳の暗い泡の中で、一人。
十年。二十年。五十年。百年。
声を忘れた。顔を忘れた。名前を忘れかけた。
でも——光だけは。あの輝きだけは。
走り続けた。闇の中を。
——見つけた。
光。温かい。眩しい。太陽みたいな。
(ここだ。ここにいた)
エリオットの感情が、津波のように押し寄せた。
安堵。歓喜。恐怖。希望。絶望から一転しての、圧倒的な——
——愛。
たった一言で表すなら、それしかなかった。
三百年分の、重すぎる、深すぎる、どうしようもない——愛。
§ § §
光が、ゆっくりと薄れていった。
金色の世界が消えて、見えたのは——六畳一間の天井だった。
「……っ」
目を開けた。
体が重い。頭がぼうっとする。でも、意識はある。生きている。
上を向いている。床に寝ているのか。横を見ると、エリオットの顔があった。
すぐ近くに。
泣いていた。ポーカーフェイスのまま、声もなく。涙が頬を伝って、フローリングに落ちている。
「……奈々」
「うん。生きてる」
「……よかった」
その一言が、全てだった。
体を起こした。少しふらふらしたけど、立てた。意識も明瞭だ。
——潰れなかった。
限界OLのメンタルは、大魔法使いの三百年を受け止めきった。
でも、今はわかる。彼の全てが。記憶も、感情も、痛みも。
全部、私の中にある。
そして——温かい。
「成功した?」
「ああ。成功した。魂の婚姻契約は——完了した」
エリオットの蒼い目を見た。
奥に、金色の光が揺れている。私の魔力の色。彼の蒼に、私の金が混ざっている。
(つながった)
魂が。
二つの人生と、四百年の孤独を越えて——やっと。
「ねえ」
「何だ」
「お腹空いた」
エリオットが、一瞬きょとんとした——そして、笑った。
あの不器用な、ぎこちない、でも確かな笑顔。
「朝食を作ろう。フレンチトースト——」
「今日は、二人で作ろ」
「……ああ」
台所に向かった。並んで。肩が触れて。
窓の外で、桜が咲き始めていた。
§ § §
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
魂の婚姻契約、完了。三百年分の記憶が流れ込んだ奈々は——潰れなかった。
「限界OLのメンタルは大魔法使いの三百年を受け止めきった」。そして咲き始めた桜。二人の新しい物語が始まります。
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