第89話:魂の婚姻契約(前編)
夜。
エリオットが、六畳一間の中央に魔法陣を描いた。
蒼い光の線が、フローリングの上を走る。複雑な幾何学模様。見たことのない文字——いや、異世界語の術式だろう。円と三角と、星のような形が幾重にも重なっている。
テーブルは端に寄せた。ソファも壁際に。るんすけは充電ドックごとクローゼットの中に「避難」させた。前回の花畑事件が相当トラウマだったらしく、ドックに入った瞬間に電源が落ちた。寝たフリか?
「ここに座ってくれ」
エリオットが、魔法陣の中心を指した。
座った。正座——じゃなくて、あぐら。最後まで限界OLスタイルを貫く。
エリオットが、向かい合って座った。正座。この男は最後まで正座だ。
§ § §
蒼い光が、床から立ち上がった。二人を包むように。薄い光の壁が筒状に形成され、六畳一間の中に小さな結界が生まれた。
「これから何が起きるか、最後に確認する」
「わかってる」
「私が古の詠唱を行う。契約の術式が完成した瞬間、二つの魂が接続される。その時——」
「あんたの全てが流れ込んでくる。三百年分の記憶と感情と魔力。わかってる」
「……もう一つ」
「何」
「契約には、双方からの誓いの言葉が必要だ」
「誓いの言葉?」
「形式は自由だ。ただ、心からの——嘘偽りのない言葉でなければ、術式は起動しない。魂が嘘を許さない」
魂が嘘を許さない。
つまり、本音を言わなければならない。
二十八年間、自分の本心を隠し続けてきた限界OLが。
「……わかった」
「では、始める」
§ § §
エリオットが、右手を胸に当てた。
蒼い光が、指先から溢れる。
そして——詠唱が始まった。
エリオットの声が変わった。低く、重く、深く。日本語じゃない。異世界の古語。意味はわからない。でも、その音が——魂の底を揺さぶる。
一節ごとに、光が強くなる。魔法陣の文字が一つずつ点灯していく。暗い六畳一間の中で、二人だけが蒼い宇宙の中にいるみたいだった。
詠唱が、止まった。
沈黙。
「——術式は準備完了した」
エリオットの蒼い目が、真っ直ぐに私を捉えた。
「あとは、互いの誓いだけだ」
「あんたから先に言って」
「……なぜ」
「私が先だと恥ずかしいから!」
「……わかった」
§ § §
エリオットが、正座のまま背筋を伸ばした。
蒼い光の中で、銀色の髪が輝いている。
そして——ポーカーフェイスが、ゆっくりと溶けた。
見たことのない表情だった。冷酷でも無機質でもない。笑顔でもない。もっと——もっと奥の、この男の魂そのものが表に出てきたような。
「カレンシュ。奈々。二つの名前を持つ——私の、ただ一人の」
声が震えていた。でも、途切れなかった。
「四百年前。私は君を殺した。正確には、救おうとして——結果として、君に恐怖と恨みを刻み付けた。その罪は、何をしても消えない」
「エリオット……」
「だが。今日から先の四百年は——もし許されるなら。君の隣で。君のために。君と共に生きたい」
蒼い目から、涙が一筋、流れた。ポーカーフェイスのまま泣くのは、もう見慣れた。この男の泣き方だ。
「私の魂の全てを。数百年の孤独も。千回の火傷も。全てを。君に——預ける」
光が、一段と強くなった。魔法陣が脈打つように輝いた。
「これが、私の誓いだ」
§ § §
私の番だ。
心臓がうるさい。耳が熱い。手が震えている。
本音を言わなきゃ、術式が起動しない。嘘は許されない。
——本音。
二十八年間、隠してきた本音。
施設で育って。番号の名前をつけられて。ブラック企業で潰されかけて。自己肯定感がゼロで。「私なんか」が口癖で。
そんな私の、本音。
深呼吸した。
「私は——すごく面倒くさい女です」
エリオットの目が、わずかに丸くなった。
「すぐ泣くし。素直じゃないし。料理は焦がすし。パジャマはジャージだし。名前は番号だし。施設育ちで、親の愛を知らなくて、人の温もりとか全然わからなくて」
声が震えた。でも、止まらなかった。
「でも——あなたが来てから。朝ご飯の匂いで目が覚めるようになった。帰る場所ができた。温かいご飯と、魔法のお風呂と、掃除してくれるルンバと——」
涙が、こぼれた。枯れたと思ったのに。奈々の涙腺は無尽蔵かもしれない。
「あなたの全てを知った上で——」
まっすぐに、蒼い目を見つめた。
「お前を、愛してる」
§ § §
魔法陣が、爆発するように光った。
六畳一間が、蒼い光に包まれた。
そして——何かが、私の中に流れ込んできた。
圧倒的な、奔流。
三百年の孤独。闇。痛み。焦燥。火傷。体が壊れては再生する日々。名前も顔も声も忘れた虚無の中で、たった一つの光——私の魔力の輝き——だけを握りしめて走り続けた、狂気と意地の日々。
全部が、一瞬で流れ込んできた。
——痛い。
痛い。苦しい。重い。
でも——
温かい。
この男の感情の根底にあるのは、怒りでも苦しみでもなく——どうしようもない、圧倒的な——
(ああ——こんなに。こんなに、私のことを)
意識が、白く光った。
最後に見えたのは、エリオットの蒼い目。涙で光っている。
そして——暗転。
§ § §
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
魂の婚姻契約。二人の誓いの言葉。そしてエリオットの全てが奈々に流れ込んだ瞬間——意識が暗転。
奈々は目覚められるのか? 三百年分の感情は、彼女の魂に何をもたらすのか?
フォロー・応援(♡)・★での評価が、続きを書く力になります!
感想・コメントは全件お返事します。「お前を愛してるの一言で全部持っていかれた」「エリオットの誓いが重すぎて泣いた」「パジャマはジャージだしwww」「暗転やめてーーー!!」なんでも嬉しいです!




