第86話:すれ違いの六畳一間(後編)
——エリオット視点。
§ § §
奈々が布団に入った。
私はソファに座ったまま、太宰治の『人間失格』を手に持っている。一行も読めていない。三時間前から同じページを開いたまま、文字が頭に入らない。
当然だ。
先ほど、彼女が「布団、一緒に」と言いかけた。途中でやめたが、続きは容易に推測できた。
脈拍が上昇している。私の、だ。彼女のバイタルは計測できるが、自分の心拍に対する制御は——今、壊滅的に機能していない。
§ § §
問題を整理する。
奈々は、私を愛してくれている。
あのキスが証明した。魔力供給ではない、心からのキス。四百年間、夢にまで見たもの。
そして今、六畳一間の向こうで——私を愛してくれている女が、寝ている。無防備に。ジャージのパジャマ一枚で。髪はさっき私が乾かしたばかりの、柔らかい黒髪。
——限界だ。
率直に言って。
理性が。
§ § §
数百年の亜空間を生き延びた精神力がある。千回の次元転移実験に耐えた忍耐力がある。国王の前でも枢機卿の前でも、完璧なポーカーフェイスを維持できる自負がある。
だが。
愛する女の寝息が——六畳という絶望的な近距離から聞こえてくる状況で、平静を保てるかどうかは、全く別の問題だ。
私の魔力は、感情と直結している。三日前のキスで、それが証明されてしまった。六畳一間を花畑に変えた。家具を浮かせた。るんすけを恐怖に陥れた。
あれはまだ、キスだけだ。
もし——もし私が、理性を失って彼女に触れたら。
三百年分の執着と焦燥と狂愛が、制御不能の魔力となって解放される。空間拡張が暴走し、結界が崩壊し、この六畳一間——いや、このマンションごと——物理的に消し飛ぶ可能性がある。
彼女を愛している。だからこそ、触れられない。
これは矛盾ではない。論理的帰結だ。
——論理的帰結のはずなのだが。
§ § §
「ん……」
奈々が寝返りを打った。布団がずれて、肩が出ている。
私は太宰を閉じ、立ち上がり、布団の端を直した。
その拍子に、彼女の顔が間近に見えた。
寝顔。少し口が開いている。まつ毛が微かに震えている。夢を見ているのかもしれない。
数百年。この顔を探し続けた。
次元の狭間の闇の中で、名前も声も顔も忘れて——でも、この人の魔力の輝きだけは忘れなかった。
そして今、目の前にいる。手を伸ばせば触れられる距離に。
——触れてはならない。
私はソファに戻った。
太宰を開いた。
一行も読めない。
時計を見た。午前二時。
長い夜だった。数百年の孤独より——或いは、遥かに長い。
§ § §
——奈々視点に戻る。
§ § §
翌朝。
目を覚ますと、エリオットがソファに座っていた。目の下にうっすらと隈があった。
(寝てない?)
あの完璧超人が、寝不足?
「おはよう」
「おはよう。……だいじょうぶ? 顔色悪いよ」
「問題ない。少し寝つきが悪かっただけだ」
「太宰なんか読むからでしょ。あんなの夜に読んだら病むよ」
「そうかもしれない」
朝食は、いつも通り完璧だった。出汁巻き卵に味噌汁に白米。この男は寝不足でも手を抜かない。
食べながら、考えた。
(この人、ずっとソファで寝てるの、実は辛いんじゃないかな)
辛いに決まっている。あの長身がソファに収まるわけがない。毎朝首が痛いだろう。背中も痛いだろう。
でも私から「一緒に寝よう」なんて言えない。昨夜、言いかけて逃げたばかりだ。
(何このすれ違い)
両想いなのに。お互い好きなのに。六畳一間に布団一枚とソファが一つ。物理的距離はゼロに近いのに、心理的距離だけが永遠に縮まらない。
——限界だ。
このままじゃ、二人とも睡眠不足で倒れる。
§ § §
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エリオット視点の告白——「愛しているからこそ、触れられない」。
三百年分の感情が暴走したら、六畳一間が物理的に消滅する?! 好きすぎて物理的に危険な男と、恋愛経験ゼロの限界OL。このすれ違い、一体どう解決するのか。
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