第85話:すれ違いの六畳一間(前編)
両想い。
この二文字の破壊力を、二十八歳にして初めて理解した。
あのキスから三日が経った。花畑事件の後、エリオットが半日かけて部屋を修復し、るんすけのメンタルケア(なぜか充電ドックに引きこもって出てこなかった)も済ませ、六畳一間は平穏を取り戻した。
だが、平穏なのは部屋だけだった。
私の心臓は、全く平穏ではなかった。
§ § §
問題は、夜だ。
六畳一間には、布団が一組しかない。
今まではエリオットがソファで寝て、私が布団で寝ていた。同居開始当初からのルール。「殺される可能性のある男と同じ布団で寝るわけがない」という、イケメンアレルギー全開の鉄壁ルール。
だが今、そのルールの根拠が完全に消滅していた。
イケメンアレルギーは治った。処刑台の恨みは消えた。この男のことが好きだと自覚してしまった。
つまり——六畳一間で、好きな男とソファと布団に分かれて寝る、というこの状況は。
(お泊まり会じゃん)
そう。二十八歳の女と、見た目三十前後(実年齢四百超え)の男の。六畳一間での。お泊まり会。
もうとっくに同居してるのに、今さら何を動揺しているのかと自分でも思うけど。でも「同居人」と「好きな人」では、隣にいる人間の重力が全然違う。
§ § §
(どうする?)
夜。シャワーを浴びた後。パジャマに着替えた。いつもの安売りのジャージ。
(いや、これはダメじゃない?)
鏡を見た。ボロボロのジャージ。毛玉だらけ。色あせ。膝が伸びている。施設時代から着倒しているやつ。
(二十八歳が好きな男の前に出る服じゃない)
クローゼットを漁った。何かないか。もう少しマシなやつ。
——なかった。
限界OL(かつ元施設育ち)のクローゼットに、「気合いの入ったパジャマ」などという概念は存在しなかった。仕事着とジャージしかない。下着だって全部ユニクロの三枚パックだ。勝負下着? 何それおいしいの?
(もういい。ジャージで行く。ジャージ上等。中身で勝負する)
何と勝負するのかは、深く考えないことにした。
§ § §
リビングに出ると、エリオットはソファに座って本を読んでいた。最近は日本語の小説も読むようになった。今日は太宰治。なぜ太宰。
「お風呂上がった?」
「うん」
「髪が濡れている。風邪を引く」
エリオットが、指先から温風の魔法を出して、私の髪を乾かし始めた。いつものルーティン。
でも、今日は違う。
エリオットの指が、私の髪に触れるたびに、心臓が跳ねる。ドクドク。ドクドク。うるさい。こんなに心臓がうるさかったっけ?
「顔が赤い」
「のぼせただけ」
「嘘だな。脈拍が上昇している。体温も通常より0.8度高い」
「バイタルいちいち計測しないで!?」
髪が乾いた。エリオットが手を下ろした。
沈黙。
「……ねえ」
「何だ」
「今日さ、その……布団、一緒に……」
言いかけて、やめた。
エリオットの顔を見たら、完全にポーカーフェイスで、蒼い目が静かにこちらを見ていて、あまりにも動揺の「ど」の字もなくて——なんか、自分だけバカみたいに感じて。
「……なんでもない。おやすみ」
「おやすみ」
逃げるように布団に潜り込んだ。
§ § §
布団の中で、天井を見つめた。
(何やってるの、私)
二十八歳。年齢イコール彼氏なし歴。恋愛経験ゼロ。
好きな男が六畳一間の向こう側にいて。お互いの気持ちはもうわかっていて。なのに——
(ソファ、あっちで一人で寝てるんだよね、あの人)
数百年の暗闇で、誰にも触れてもらえなかった男が。今夜もまた、一人で。
(……私が声かけなきゃ、あの人は永遠にソファで寝るんだろうな)
わかっている。礼儀正しいとか、紳士的だとか、そういうレベルの話じゃない。この男は——怖がっている。
自分が一歩踏み込んだら、四百年分の感情が暴走して、私を壊してしまうかもしれない。あの花畑事件が、それを証明してしまった。
(面倒くさいなぁ、もう……)
限界OLと最強の大魔法使い。両想いなのに、一ミリも進展しない六畳一間の夜。
明日こそ。明日こそ、なんとかする。
……たぶん。
§ § §
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
両想いになったのに全然進まない二人!
ジャージしか持ってない限界OLの勝負服問題と、ポーカーフェイスの裏で実は限界のエリオット。すれ違いの六畳一間は続きます。
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