第84話:初めての「本物の」キス(後編)
マグカップが浮いている。
テーブルの上、三十センチほどの高さで、くるくると回転しながら。中身の麦茶がスローモーションで渦を巻いている。
「え、ちょ——」
「問題ない」
「浮いてるけど!?」
「些事だ」
「些事じゃないってば!」
マグカップだけじゃなかった。テーブルの上のティッシュ箱が浮いた。リモコンが浮いた。テーブル自体がガタガタ揺れ始めた。
エリオットの全身から、蒼い光が漏れ出している。魔力だ。目に見えるほどの、圧倒的な魔力の奔流。
「エリオット! 落ち着いて!」
「落ち着いている」
「全然落ち着いてないでしょ! 家具浮いてるし!」
「感情が高ぶると魔力の制御精度が低下するのは仕様だ」
「仕様って言うな!」
§ § §
六畳一間が、カオスだった。
椅子が宙に浮いている。本棚の本がばらばらと飛び出して、部屋の中をゆっくり旋回している。カーテンが風もないのにバタバタとはためいている。
そして——床から、花が生えてきた。
「なっ——!?」
フローリングの隙間から、小さな白い花が。一輪、二輪、三輪。あっという間に十輪、二十輪。見たことのない花だ。透明感のある白い花弁が、蒼い光を受けてキラキラと輝いている。
「これ何!?」
「……星涙花。故郷の高山にだけ咲く花だ。魔力が溢れると、無意識に練成されてしまう」
「練成って——生やすな! フローリングに!!」
「制御できない。すまない」
全然すまなそうじゃない顔で言った。いや、いつも通りのポーカーフェイスなので、すまなそうかどうか判別できないだけかもしれないが。
花が増え続けている。テーブルの脚から。ソファの隙間から。窓枠から。六畳一間が、あっという間に花畑になっていく。
——きれいだった。
認めたくないけど、きれい。異世界の花が蒼い光の中で揺れて、浮遊する本やティッシュ箱の間をすり抜けて、まるで——宇宙みたいだった。
§ § §
「るんすけ!!」
充電ドックの中で、るんすけが「ぴぎゃっ」と電子音を上げた。足元の花に埋もれかけている。でも負けじと起動して、花を吸い始めた。
——吸えるの? 異世界の花を?
ぶいいいいい。ぶいいいいい。
るんすけが全力で花を吸っている。だが、生えるスピードの方が圧倒的に速い。まるでモグラ叩きならぬ花吸い。永遠に終わらない戦い。
「るんすけ、もういい! 退避して!」
るんすけが「ぴこ」と鳴いて、充電ドックに避難した。賢い。
「エリオット!! お願い、止めて!!」
「止めようとしている。だが——」
エリオットの蒼い目が、まだ光っている。
「四百年間、溜め込んだ感情が——」
声が、震えていた。ポーカーフェイスの下で、この男は——泣いているのか、笑っているのか、わからない。
「君からの本物のキスを受けて——四百年分の全てが、溢れて止まらない」
§ § §
——四百年分。
この男は、四百年間。一度も。誰からも。愛されたことがなかったのだ。
宮廷では「化け物」と恐れられ。亜空間では完全な孤独の中にいて。現代に来てからも、「魔力供給」という業務名目のキスしかもらえなかった。
それが今——初めて。
本物の、気持ちを込めたキスを。
四百年の魔力ダムが、決壊した。そういうことなのか。
(そっか。そんなに嬉しかったんだ)
怒る気が、全部なくなった。
花畑の中で、浮遊する家具と格闘するのをやめて、私はエリオットの前に立った。
「エリオット」
「……すまない。もう少しで制御——」
「いいよ」
「え?」
「いいって言ってるの。花、きれいだし」
エリオットの目が、見開かれた。
「壊れたものは後で直して。家賃は折半にしてないから、修繕費はあんた持ちね。でも——花は、きれい」
一輪、拾い上げた。星涙花。蒼い光の中で透けている。
「これ、あんたの故郷の花なんでしょ」
「ああ」
「じゃあ、少しだけ残して。一輪だけ」
エリオットの魔力が、ゆっくりと収まっていった。蒼い光が薄れ、浮いていた家具がゆっくりと着地し、花が一つずつ消えていく。
最後に残ったのは、私の手の中の一輪と——散らかりまくった六畳一間。
本が床に散乱。マグカップが横倒し。麦茶がこぼれてテーブルがびしょびしょ。るんすけが充電ドックの中で小刻みに震えている。
「……ごめん。片付ける」
「当然でしょ」
でも、怒れなかった。
だって、この男が——四百年ぶりに、笑っていたから。
ポーカーフェイスじゃない。真顔じゃない。本物の、小さな——不器用で、ぎこちなくて、でも確かな——笑顔。
(あ——)
やばい。
好きだ。
この男のこと、本気で好きだ。
§ § §
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
四百年分の感情が溢れて、六畳一間が花畑に!
魔力暴走するエリオットと、花を吸おうとするるんすけと、「花はきれいだよ」と笑う奈々。そして——エリオットの、四百年ぶりの本物の笑顔。
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