第83話:初めての「本物の」キス(前編)
朝食を食べ終わって、食器を洗って。
ソファに戻った。エリオットが隣に座った。肩が触れる距離。もう、避けなかった。
窓の外から春の日差しが差し込んでいる。三月の終わり。桜はまだ咲いていないけど、空気が柔らかい。
「ねえ」
「何だ」
「今日の魔力供給、まだしてないよね」
エリオットが、微かに身じろぎした。
「ああ。……だが、今日は無理にしなくていい。昨日のうちに補給は——」
「するよ」
「え?」
「するって言ってるの。キス」
エリオットの目が、わずかに見開かれた。ポーカーフェイスに亀裂が入る。
「だが——」
「でも、今日のは違うから」
「……違う?」
私は、深呼吸した。
心臓がうるさい。耳の奥でドクドク言ってる。二十八歳にもなって、キスの一つで心臓爆発しそうなのは、さすがに恋愛偏差値が低すぎないか。
でも、いい。低くていい。年齢イコール彼氏いない歴で上等だ。
「今日のキスは——魔力供給じゃないから」
§ § §
エリオットが、固まった。
完全に。
石像みたいに。
さっきまで微かに動いていた蒼い目が、瞬きすら忘れている。呼吸も止まっている気がする。この男、四百年生きてきてキスの予告で呼吸停止するの?
「……聞こえた?」
「聞こえた」
「理解できた?」
「……理解は、した。だが、処理が追いつかない」
「大魔法使いの量子コンピュータ脳でも?」
「量子コンピュータ脳は、愛する人の言葉を処理するようには設計されていない」
(何それ。何それ可愛いんだけど)
思っても口には出さない。出したら絶対に調子に乗る。いや、この男は調子に乗るタイプじゃないけど。でも、何か取り返しのつかないことになりそうな予感がする。
§ § §
「いくよ」
「待て」
「何」
「心の準備が——」
「四百年待ったんでしょ。準備する時間は充分あったはずだけど」
「四百年の覚悟と、今この瞬間の覚悟は全く別の問題だ」
「面倒くさいなぁ!」
ソファの上で向き直った。エリオットの正面に。
近い。
この男の顔が、こんなに近い。
銀色の髪。蒼い目。長いまつ毛。完璧すぎる鼻筋。薄い唇。
——イケメンアレルギーの原因であり、二十八年間の天敵であり、数百年かけて私を探してくれた、世界で一番馬鹿な男の顔。
(きれい)
素直にそう思った。初めて。イケメンアレルギーのフィルターなしで、この男の顔を見た。
きれいだ。怖くない。冷たくない。ただ、きれい。
「エリオット」
「何だ」
「目、閉じて」
「……」
エリオットが、ゆっくりと目を閉じた。
長いまつ毛が、頬に影を落とした。ポーカーフェイスは完全に崩壊していて、唇が微かに震えていた。
——この男。
世界最強の大魔法使いが。四百年の孤独を生き抜いた化け物が。
キスの直前に、震えてる。
§ § §
(かわいい)
不覚にも、そう思ってしまった。
思ってしまったら、もう止まれなかった。
手をエリオットの頬に添えた。冷たい。でも、もう怖くない。
顔を近づけた。
息がかかる距離。鼻先が触れそうな距離。
これまでのキスは、全部「業務」だった。魔力供給という名目の、義務的な接触。目を閉じて、三秒。事務的に唇を合わせて、終了。毎朝のルーティン。歯磨きと同じレベルの作業。
でも今日は——
「……奈々」
エリオットが、目を閉じたまま囁いた。
「カレンシュ、でも。どちらでもいい。どちらの名前でも——君は、君だ」
ずるい。
この男は、こういうところが本当にずるい。
涙が出そうになった。でも、堪えた。ここで泣いたら台無しだ。
代わりに——唇を、重ねた。
§ § §
今までのキスと、何もかもが違った。
温度が違う。圧が違う。時間の流れ方が違う。
事務的な三秒じゃない。目を閉じた闇の中で、ただこの人の存在だけを感じる、永遠みたいな一瞬。
冷たいはずの唇が、温かかった。
(ああ——)
壁が、溶けた。
前世の処刑台。恨み。恐怖。イケメンアレルギー。自己肯定感ゼロの二十八年間。全部が、溶けていく。
代わりに流れ込んでくるのは——この男の四百年。孤独。痛み。焦がれた記憶。そして、圧倒的な——
唇を離した。
目を開けた。
エリオットの目が、蒼く光っていた。
文字通り、光っていた。瞳の奥で、魔力が渦を巻いている。
「ちょっと——目、光ってるんだけど」
「……問題ない」
「いや大問題でしょ」
「問題ない。ただ、少し——制御が、効かなくなっている」
「制御!?」
その瞬間。
テーブルの上のマグカップが、ふわりと浮いた。
§ § §
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
魔力供給ではない、初めての「本物の」キス。
そして——エリオットの目が光り始めて、マグカップが浮いたところで次回へ!
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