第81話:赦しの夜(前編)
その日の夜は、何もしなかった。
夕食を食べて。お風呂に入って。歯を磨いて。パジャマに着替えて。
いつもの夜。でも、いつもと全然違う夜。
テーブルの前に座る気力は、もう残っていなかった。正座はおろか、あぐらすらきつい。この一週間、毎晩泣いて泣いて泣き続けた私の涙腺は、完全に枯渇していた。
「ソファ、座る」
「ああ」
二人でソファに座った。狭い六畳一間の、狭いソファ。肩が触れる。
テレビはつけなかった。音楽も流さなかった。エアコンの風と、時計の秒針だけが聞こえている。
「ねえ」
「何だ」
「今さらなんだけど」
「何だ」
「同じ返事二回もするんだ」
「……すまない。癖だ」
「いいけど」
ソファの背もたれに頭を預けた。天井を見上げた。
§ § §
「私さ。施設育ちじゃない?」
「ああ」
「施設にいた頃、夜がすごく嫌だった」
エリオットは、黙って聞いていた。
「消灯時間になると、布団に入って、天井見てるの。真っ暗で、他の子の寝息だけが聞こえて。でも誰も、私のことなんか気にしてなくて」
「……」
「お母さんが迎えに来る子もいた。お父さんが面会に来る子も。でも私は——七番目に保護された子供。名前の由来が番号。親がどこにいるかもわからない。面会なんか、一度もなかった」
不思議と、涙は出なかった。枯れたから。
「だからね、人の温もりってものがわからなかった。人に触れられると安心するっていう感覚が、私の中になかった。ずっと」
隣のエリオットの気配を感じた。呼吸が、少しだけ変わった。
「でも、あんたが来てから——」
言葉を選んだ。
「朝起きると、ご飯の匂いがするの。誰かが台所に立ってて、私のために何か作ってくれてるの。それだけで——あ、帰ってきたんだな、って。家があるんだな、って。思えるようになった」
「奈々……」
「加齢臭って呼ぶなって何回言ったら——」
「今のは『奈々』だ」
「……あ、本当だ」
エリオットが、初めて私を「奈々」と呼んだ。
心臓が跳ねた。変な意味じゃなくて。ただ、驚いた。この男の口から「カレンシュ」以外の名前が出たのが。
§ § §
「今まで。奈々、と呼ぶのを避けていた」
エリオットが、低い声で言った。
「施設での番号がそのまま名前にされた——その名に、愛がないからだ。番号で呼ばれることに、君が慣れてしまっていることが、私には耐えられなかった」
「……」
「だからカレンシュと呼んだ。前世の、誇り高い名前で。でも——君が嫌がっているのも知っていた」
「そりゃ、加齢臭にしか聞こえないからね」
「加齢臭ではない」
「日本語の耳にはそうなんだよ。もう二十八年こっちで生きてるの」
少しだけ笑えた。
「でも、ありがとう。番号じゃない名前で呼んでくれて」
「……」
「今は、奈々でいいよ。七番目だろうが何だろうが——それが私の名前だから。二十八年間、この名前で生きてきたから」
エリオットが、しばらく黙っていた。
「では、これからは——奈々、と」
「うん」
「……奈々」
二回目。噛みしめるように。大切なものを壊さないように、そっと。
「何」
「いや。口に馴染ませている」
「変な男」
「否定しない」
§ § §
会話が途切れた。
でも、沈黙は苦しくなかった。
二人の間にあった壁——前世のわだかまり、処刑台の恨み、四百年の後悔——が、少しずつ溶けていくのがわかった。
まだ全部は消えていない。たぶん、一朝一夕には消えない。でも、確実に薄くなっている。
目が重くなってきた。泣きすぎた一週間の疲れが、全身にのしかかってくる。
「眠いの?」
「……ちょっとね」
「布団を——」
「いい。ここで」
ソファの上で、横になった。膝を折って。狭いけど、いい。
エリオットが動かなかった。私の足が、エリオットの膝に触れたままだけど、動かさなかった。
「エリオットも寝なよ」
「私は——」
「寝て。正座しすぎて、足もうボロボロでしょ」
「……」
「命令」
エリオットが、小さく息を吐いた。諦めたように。
ソファの反対側に、ぎこちなく体を横たえた。長い足がはみ出している。六畳一間のソファでは、この男の長身は収まらない。
でも、文句は言わなかった。
§ § §
暗い部屋の中で、二つの呼吸が重なった。
涙はもう出ない。代わりに、温かい何かが——胸の奥で、じんわりと広がった。
(この人は——この先も、ずっとここにいるんだ)
確信に近い、静かな予感だった。
目を閉じた。
意識が溶けていく直前、エリオットの指が——私の髪に、そっと触れた。
起きていたのか。
でも、振り払わなかった。
その温もりが——冷たいはずのこの男の指先が、なぜか——温かかった。
§ § §
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
涙も枯れた一週間の終わり、ソファの上で過ごす静かな夜。
エリオットが初めて「奈々」と呼んだ瞬間。そして二人の間の壁が、少しずつ溶けていく夜でした。
フォロー・応援(♡)・★での評価が、続きを書く力になります!
感想・コメントは全件お返事します。「奈々って呼んだ瞬間に泣いた」「番号の名前の話が刺さりすぎる」「ソファで寝る二人が尊すぎて息できない」なんでも嬉しいです!




