第79話:「あの時、どうして何も言ってくれなかったの」(前編)
五日目の朝。
ソファの上で目を覚ました時、エリオットはもう台所に立っていた。
昨夜の続き。四百年の告白。数百年の孤独。うどんで生き延びた大魔法使い。
——全部、聞いた。
でも、「答え」はまだ言えなかった。言うつもりだったのに。ちゃんと準備して、ちゃんと言葉にするつもりだったのに。
だって、まだ——整理がつかない。
§ § §
朝食はオムレツだった。ふわふわで、中が半熟で、ケチャップでるんすけの顔が描いてあった。
(なんでこの男は、こういう余計なところだけ器用なんだろう)
黙って食べた。美味しかった。腹立たしいほどに。
「仕事は」
「休む」
エリオットの箸が止まった。
「主任なのに——」
「有給。溜まってるし」
嘘ではない。溜まりに溜まった有給消化率は三パーセント。朝倉座長にも「小松さん、お願いだから休んでください」とこの間言われたばかりだ。
「……そうか」
エリオットは、それ以上何も聞かなかった。
§ § §
食器を洗って、お茶を淹れて、テーブルの前に座った。
向かい合う。いつもの位置。
エリオットが、正座した。
「正座しなくていいよ」
「いや」
「足、痺れるでしょ」
「構わない」
この男はいつもそうだ。自分のことになると、徹底的に頑固で、徹底的に自罰的で。
私は正座なんかしない。あぐらだ。限界OLに正座の美学はない。
「ねえ」
「何だ」
お茶の湯気が、二人の間で揺れている。
「昨日までの話で、一つだけ……まだ、聞けてないことがある」
「……何でも聞いてくれ」
「あの時——処刑台の上で」
声が、震えた。自分でも驚くほど。
「なんで、何も……言ってくれなかったの」
§ § §
エリオットが、目を伏せた。
この問いが来ることは、わかっていたのだろう。昨夜、断頭台の真実を全て語り終えた時から、ずっと覚悟していたはずだ。
「聖女の監視があった。一言でも囁けば、術式が台無しになると。……それは、昨日聞いた」
「ああ」
「でも」
私は、テーブルの上で拳を握った。
「じゃあ、もっと前は? 逮捕される前は? 私が地下牢にいた時は? 裁判の前に、一回でも——一回だけでも、会いに来てくれれば——」
声が裏返った。
「『大丈夫だ、俺が何とかする』って。たった一言——たった一言だけでも言ってくれたら、私はあの処刑台の上で、あんたを信じられたのに」
涙が、こぼれた。
ああ、また泣いてる。何日連続だ。泣きすぎて目の周りがもうパンダだ。明日出社したら、絶対に朝倉座長が救急車を呼ぶ。
「あんたは全部一人で背負った。計画も。禁術も。亜空間も。数百年も。全部一人で。……でもさ」
声を絞り出した。
「私は、何も知らなかったんだよ」
§ § §
「何も知らないまま、処刑台に立たされて。あんたの顔を見て。あの冷たい顔を見て。——ああ、この人も敵だったんだ、って。信じてたのに裏切られた、って。そう思って……死んだの」
テーブルの上のお茶が、小さく波打った。私の手が震えているから。
「死ぬ瞬間の最後の感情が、恨みだった。あんたへの。世界で一番信じてた人への、恨み」
「……」
「それを、二十八年間ずっと引きずって生きてきた。イケメンアレルギーも。人を信じられないのも。全部——あの瞬間から始まってる」
エリオットの拳が、膝の上で白くなっている。
「あんたが悪くないのは、もうわかった。呪縛があったのも。聖女が見張ってたのも。全部わかった。わかったけど——」
声が、詰まった。
「わかったけど、痛いのは変わらないんだよ」
§ § §
六畳一間が、静まり返った。
時計の針だけが動いている。エアコンの風が、カーテンを微かに揺らしている。
エリオットは、何も言わなかった。
言い訳もしなかった。弁明もしなかった。
ただ、正座したまま、まっすぐに私を見ていた。
蒼い目に、涙はなかった。
代わりにあったのは——全てを受け止める、静かな覚悟だった。
「続きは、明日聞いてくれるか」
「……明日?」
「ああ。今日の君の問いに——一晩かけて、答えを用意させてほしい。四百年分の言い訳ではなく、君の痛みに対する、真正面からの答えを」
私は、涙を拭った。
「……わかった。待つ」
「ありがとう」
エリオットが、深く頭を下げた。正座のまま。あの長い銀髪が、テーブルに触れるほどに。
四百年を生きた最強の大魔法使いが、六畳一間で、限界OLに頭を下げている。
その姿がおかしくて、でも泣きそうで、でもやっぱりおかしくて——
(この男は、本当に——)
答えは、明日。
§ § §
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
四百年の告白を聞き終えた奈々が、ずっと胸に抱えていた「最後の問い」をぶつけました。
「わかったけど、痛いのは変わらないんだよ」——理屈で納得しても、心の傷は消えない。その痛みに、エリオットはどう答えるのか。
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