第78話:数百年の孤独(後編)
四日目の夜。
エリオットの告白の、最後の夜。
いつものように向かい合った。お茶を淹れた。正座した。
でも今夜は、少しだけ違った。
私はテーブルの向こう側ではなく、エリオットの隣に座った。
「……何をしている」
「隣で聞く。向かい合ってると、あんたの表情が見えすぎて辛いから」
本当は逆だ。この男の横顔を見ながら聞きたかった。向かい合うと、この男は全力でポーカーフェイスを維持しようとする。でも横顔なら——ほんの少しだけ、素の表情が漏れる。
「……好きにしろ」
「するよ」
§ § §
「最後の実験が成功した日のことを話す」
エリオットが、お茶を一口飲んだ。
「何百年目だったか、正確には覚えていない。もう時間の感覚はとうに失われていた。ただ、亜空間の中で——ふいに、感じたのだ」
「何を?」
「光」
その一言に、全ての重みが乗っていた。
「千回以上失敗した次元転移の実験。千回目の挑戦の後に、体を再生して、また挑戦して。何度目かの——もう数えてもいなかった回数で、次元の壁に穴が開いた瞬間。その向こうから——」
エリオットの声が、かすかに震えた。
「眩い光が、溢れた。温かくて。柔らかくて。太陽のような——」
「私の……魔力?」
「ああ。君の魔力の波長だ。間違えるはずがない。数百年間、この波長だけを探し続けた。脳に刻み込んだ。魂に焼き付けた。一兆の座標の中から、たった一つの——」
エリオットが、言葉を切った。
横顔を見た。
——泣いていた。
声もなく。表情を変えず。ただ蒼い目から、一筋の涙が頬を伝っていた。
ポーカーフェイスのまま泣く男。それが、この大魔法使いの泣き方だった。
「見つけた時、何をしたか覚えているか聞くか」
「聞く」
「何もしなかった」
「え?」
「三日間、動けなかった。その場に崩れ落ちて、動けなかった。数百年ぶりに——感情が、戻ってきたのだ。名前を忘れ、顔を忘れ、声を忘れ、感情すら摩耗していた私の中に。津波のように」
エリオットが、自分の胸に手を当てた。
「安堵と歓喜と恐怖が同時に来た。見つけた。やっと見つけた。でも、ここから先が問題だ。穴を開けただけでは足りない。この体ごと向こう側に飛び込まなければならない。そして——今度は失敗が許されない」
「失敗が許されない?」
「次元の壁を体ごとぶち抜けば、私の魔力は完全にゼロになる。再挑戦の余力はない。一発勝負だ。失敗すれば、次元の狭間で消滅する。君のいる世界に辿り着けないまま、永遠に」
§ § §
「それでも、飛んだのね」
「当然だ」
また「当然」だ。この男にとっては、全てが当然なのだ。数百年の孤独も。千回の火傷も。一発勝負の次元転移も。全て——私のためなら、当然。
「結果は、知っての通りだ」
「ボロボロのローブ一丁で、私の部屋の真ん中に現れた」
「……その節はすまなかった」
「忘れるわけないでしょ。第一印象が最悪だったし、ルンバに怯えて気絶しちゃったんだから」
少しだけ笑った。エリオットも、微かに口角が上がった。
「次元の壁を突破した衝撃で、強固な防具はおろか、体の表層の魔力結界も全て剥がれてしまった。無防備で——魔力も完全に底をつき——意識も朦朧としていてな」
「それで、お掃除ロボットに足元を小突かれて倒れちゃって」
「……頼む、その情けない話はもう忘れてくれ」
「無理に決まってるでしょ。異世界最強の大魔法使いの、歴史的敗北の瞬間だったんだから」
§ § §
エリオットが、少し間を置いた。
そして——横を向いて、私を見た。
「奈々」
「ん」
「カレンシュと呼ばせてくれ。今だけ」
「……いいよ。今だけね」
「カレンシュ」
その声が、今までと違った。
いつもの甘い声でも、講義のような平坦な声でもない。数百年の全てを背負った、ひどく疲れた——でも、温かい声。
「私が語れるのは、ここまでだ」
「ここまで?」
「ああ。処刑の真実。亜空間での探索。次元転移。そして——君の部屋に辿り着くまで。これが、四百年間語れなかった全てだ」
全て。
四日かけて聞いた、エリオットの四百年。
私は、しばらく黙っていた。
「一つだけ、最後に聞いていい?」
「何でも」
「亜空間の中で……一番辛かったのは、いつ?」
エリオットが、天井を見上げた。
長い沈黙。
「三百年目の頃だ」
「何があったの」
「何もなかった」
「……」
「文字通り、何もなかった。座標の探索は行き詰まり、実験も連続で失敗し、体はボロボロで。その時、初めて——本気で、やめようかと思った」
心臓が止まりそうになった。
「やめるって……探索を?」
「全てをだ。探索も。生存も。亜空間の結界を解除すれば、私は虚無に溶けて消える。痛みもない。ただ、消えるだけだ」
「……」
「その方が楽だと思った。数百年ぶりに。あるいは、生まれて初めて」
横顔を見つめた。涙の跡が、まだ残っている。
「でも、やめなかった」
「ああ。やめなかった」
「なんで」
「うどん」
「……は?」
「カレンシュが、宮廷の厨房で見つけた異国の麺料理を、私に食べさせてくれたことがある。『これ、美味しいから食べてみて』と。あの味を思い出した」
私は、口をぽかんと開けた。
「死にかけてた時に思い出したのが……うどん?」
「正確には、うどんを差し出す君の手だ。あの温かさを——もう一度、感じたいと思った。それだけで、結界を維持する指が動いた」
——この男は。
この男は、本当に。
「あんたって本当に、馬鹿だよね」
「否定しない」
「大馬鹿だよ」
「否定しない」
「うどんだよ? うどんで生き延びたの? 数百年の孤独を乗り越えた理由が、うどん?」
「うどんを差し出す君の手だ、と言っただろう。うどん単体ではない」
「フォローになってないから!」
泣きながら笑った。笑いながら泣いた。もう、どっちかわからなかった。
§ § §
夜が更けていった。
気づけば、私はエリオットの肩にもたれかかっていた。いつそうなったのか、覚えていない。
骨ばった肩。冷たい体温。でも、確かにそこにいる人の温かさ。
「全部、聞いた」
「ああ」
「四百年分。全部」
「……全部だ」
「明日……私の答え、言うから」
「答え?」
「うん。ちゃんと考えて、ちゃんと言葉にして。あんたが四百年かけてくれたものに——ちゃんと、返すから」
エリオットの体が、かすかに震えた。
「待っている。いつまでも」
「いつまでもとか言わないで。明日には言うから」
「……そうか」
肩にもたれたまま、目を閉じた。
エリオットの呼吸が、規則正しく聞こえる。心臓の音も。ゆっくりで、静かで。数百年を生き延びた心臓の音。
(この人を——)
言葉にはしなかった。まだ。明日、ちゃんと。
エリオットも、動かなかった。私がもたれかかっているから、正座のまま微動だにしない。足、痺れてるだろうに。
るんすけが、充電ドックから出てきた。テーブルの下を一周して、二人の足元で止まった。
まるで、見守るように。
六畳一間の夜が、静かに過ぎていった。
四百年の告白が、終わった。
そして——二人の、新しい物語が、始まろうとしていた。
§ § §
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
数百年の孤独の果てに、見つけた光。
死にかけた時に思い出したのは、うどんを差し出すカレンシュの手の温かさだった——。四百年の告白が終わり、奈々の「答え」は次回へ。
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感想・コメントは全件お返事します。「うどんで生き延びた大魔法使いwww」「泣いて笑ってまた泣いた」「るんすけが見守ってるの最高」「奈々の答えが気になって眠れない」なんでも嬉しいです!




