第77話:数百年の孤独(中編)
三日目の夜。
もう、帰宅するとテーブルの前に座るのが当たり前になっていた。正座。向かい合う。お茶を淹れる。エリオットの話を聞く。
昨日の続き。亜空間の中で、数百年間、たった一人で次元座標を探し続けた日々の話。
「座標の探索は、気が狂うほど単調な作業だった」
エリオットが、お茶を両手で包むように持っていた。温かさを確かめるように。
「次元座標を一つ特定する。その座標に向けて、魔力の触手を伸ばす。座標先の世界に、君の魔力波長と一致する反応がないか探る。なければ、次の座標へ。その繰り返しだ」
「一つの座標を調べるのに、どれくらいかかるの?」
「最初の頃は、一つに数日かかった。百年を超えた辺りで効率化し、一日で数百を処理できるようになった。それでも——足りなかった」
「足りない?」
「次元座標の総数は、この世界の全ての砂粒の数よりも多い。数百を処理して一日。数千を処理して十日。一万で一ヶ月。百万で一年。それを数百年続けても——まだ、全体の万分の一にも満たなかった」
気が遠くなる数字だった。
「でも、諦めなかったんでしょ」
「当然だ」
当然、とこの男は言う。
「一つだけ、手がかりがあった」
「手がかり?」
「君の魔力の波長は、尋常ではなく強い。国家機密級と言ったが——正確には、あの世界の歴史上、あれほどの魔力容量を持って生まれた人間は存在しない。唯一無二の規格外だ」
前世の自分が、ちょっと誇らしかった。
「その極大の波長は、次元の壁を越えても減衰しにくい。遠くの世界からでも、微かに——本当に微かに、感知できる可能性があった。砂漠の中で一粒の砂金を探すようなものだが、砂金の輝きだけは他の砂とは決定的に違う」
「それを、数百年かけて」
「ああ。探し続けた」
§ § §
「二百年目の頃だった」
エリオットの声が、わずかに変わった。今までの平坦な口調に、かすかな感情が混じった。
「何が?」
「次元転移の実験を始めた」
「実験?」
「座標の解析だけでは限界がある。実際に、次元の壁に穴を開けて、向こう側を覗く必要があった。理論上は可能だが、実践したことは一度もなかった。次元の壁を破るには、自分の魂を一部削って代償にする必要がある」
——魂を削る。
「最初の実験で、右腕の感覚が三ヶ月間消えた」
「え……」
「二回目で、左足の筋肉が壊死した。再生するのに半年かかった」
「待って」
「三回目で、全身に火傷を負った。次元の壁が反発し、空間が歪んで、私の体を焼いた」
「待ってよ」
「四回目、五回目——数えきれないほど失敗した。その度に体が壊れ、再生し、また壊れた」
声が出なかった。
「だが、やめるわけにはいかなかった。座標の解析だけでは、永遠に君に辿り着けない。リスクがあっても、実際に壁を破って確認するしかなかった」
エリオットの声は、淡々としていた。
だが、私は見逃さなかった。
テーブルの下で、エリオットの両手が——微かに震えていることを。
「エリオット」
「何だ」
「手、見せて」
「……」
「見せて」
エリオットが、逡巡した。
長い沈黙の後、テーブルの上に両手を出した。
——息を、呑んだ。
§ § §
エリオットの手は、いつも手袋をしていた。
あるいは、長袖のシャツの袖を手首まで引き下ろしていた。家事をする時も、料理をする時も、指先以外は常に覆われていた。
私は、それを「この男の美意識」だと思っていた。宮廷魔術師だった名残の、気取った癖だと。
違った。
手袋の下、袖の下にあったのは——無数の、火傷の痕だった。
手の甲。手首。指の一本一本。白く歪んだ瘢痕が、幾重にも重なって皮膚を覆っている。引き攣れた傷痕。変色した肌。爪が歪んで再生した指。
両手だけじゃない。袖を少しまくると、前腕にまで——同じ傷痕が、びっしりと刻まれていた。
「これ……」
声が震えた。
「次元転移の実験による火傷だ。再生魔法で治癒はしたが、痕は完全には消えなかった。魂を削る代償で発生した傷は、魔法をもってしても完治しない」
淡々と。まるで他人事のように。
「何回……何回、実験したの」
「正確な数は覚えていない。千は超えたと思う」
「千……」
「成功したのは、最後の一回だけだ。残りは全て失敗した。その度に、こうなった」
私の視界が、涙で歪んだ。
千回。千回、体を壊して。千回、火傷を負って。千回、魂を削って。
それでもやめなかった。一回でも成功するまで。私を見つけるまで。
「ここまでして……」
言葉が出なかった。
ここまでして、私を。
二十八歳の限界OLの。施設育ちの。名前が番号の。自己評価が底辺の。何の取り柄もない——私を。
「エリオット」
「何だ」
「なんで」
馬鹿みたいな質問だった。でも、聞かずにはいられなかった。
「なんで、そこまでするの。私は……前世だって、ただの伯爵令嬢で。あんたの帳簿の計算を手伝っただけで。お茶を淹れて、一緒にご飯食べただけで。そんなの……そんなことのために、数百年も——」
「そんなこと、ではない」
エリオットの声が、初めて——強く、響いた。
「あの世界で。数百年の生涯で。私を『化け物』でも『道具』でもなく、ただの一人の男として見てくれたのは、君だけだ。帳簿の計算を頼んできた時。お茶を淹れてくれた時。一緒に食事をしてくれた時。君は私を——《《人間》》として、扱ってくれた」
蒼い目が、真っ直ぐに私を射抜いた。
「それがどれほどの価値を持つか、君にはわからないかもしれない。だが——私にとっては、全てだった。この命も、この魂も、この数百年も。全て、君がくれた『人間としての時間』への、返礼にすぎない」
§ § §
テーブルの上に出されたままのエリオットの手を、私は握った。
傷だらけの手。火傷の痕が幾重にも重なった手。
その手で、毎朝私にフレンチトーストを焼いてくれていた。
その手で、毎晩私に温かい夕食を作ってくれていた。
その手で、るんすけを磨いて、六畳一間を掃除して、私の生活を守ってくれていた。
この傷の一つ一つが、私を探すためについた傷。
千回の失敗。千回の火傷。千回の魂の欠損。
「……泣かないでくれ」
「泣くよ」
「君が泣くと、私は——対処法がわからなくなる」
「知らないよ。泣くなって方が無理でしょ、こんな話聞いたら」
ぐしゃぐしゃに泣いた。三日連続だ。泣きすぎて脱水症状になりそう。
でも、手は離さなかった。
この傷だらけの手を、離してたまるか。
「明日、最後の話を聞くから」
「……ああ」
「全部聞いて。全部受け止めて。それから——ちゃんと、答えを出すから」
「答え?」
「私からの、答え」
エリオットが、かすかに首を傾げた。
私は、傷だらけの手を両手で包んだまま、言った。
「待ってて」
§ § §
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
千回の失敗。千回の火傷。千回の魂の欠損。
手袋の下に隠されていたのは、数百年にわたる狂気の探索の代償でした。「なんでそこまでするの」——その問いへのエリオットの答えが、胸を貫きます。
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