第70話:赦しの連鎖(前編)
面会室を出た後、私はしばらく廊下のベンチに座っていた。
立てなかった。膝が震えていた。
白峰さんの泣き顔が、まぶたの裏にこびりついている。あの「ごめんなさい」の連呼が、耳の奥でまだ反響している。
——許せるか、と聞かれたら。
許せない。
前世で処刑台に送られた。家族は没落した。今世でも、キャリアを潰されかけた。公安に目をつけられ、プロジェクトから追い出されかけた。
あの女がやったことは、二つの人生を丸ごと踏みにじる行為だ。
でも。
(あの子も、ずっと一人だったんだ)
孤児で。神殿に拾われて。「聖女」という看板だけを求められて。中身の自分は誰にも必要とされなくて。
大人たちに利用され、唆され、歪められた。
それは、私が知っている痛みと——どこか、似ていた。
§ § §
ビルの外に出ると、エリオットが立っていた。
三月の風が冷たい。コートの襟を立てた長身の男が、無機質なビルの前で微動だにせず待っている姿は、通行人の視線を集めていた。認識阻害の結界を張っているはずなのに、この男の存在感は物理法則を無視する。
「終わったか」
「うん」
「……泣いたな」
「泣いてない」
「目が赤い」
「花粉症」
「三月に花粉症を発症した記録は、君の医療データにはない」
「勝手にハッキングしないでくれる!?」
いつもの調子が、少しだけ戻った。
§ § §
帰り道、電車の中で私は黙っていた。
エリオットも何も聞かなかった。隣に座って、ただ私の隣にいた。それだけで充分だった。
池袋に着いて、マンションに帰って、靴を脱いで。
ソファに座った瞬間、口が勝手に動いた。
「白峰さんは……前世の聖女の記憶が全部蘇ってた」
エリオットが、台所で手を止めた。
「フィオの記憶が?」
「うん。私のことを『カレンシュお姉様』って呼んだ。前世で、私に声をかけてもらったのが人生で初めてだったって。孤児で、誰にも中身を見てもらえなくて、枢機卿に唆されて——」
声が詰まった。
「あの子は、私に『助けて』って言ってほしかったんだって。私を処刑台に送ったのは、ボロボロになった私が自分に泣きついてくれると思ったから。それだけが欲しかったんだって」
エリオットの表情が、硬くなった。
「それは……あの女の身勝手な欲望だ。君を傷つけた事実は変わらない」
「わかってる」
「許す必要はない」
「わかってるよ」
私は、膝の上で手を握った。
「わかってるけど……」
§ § §
翌日、もう一度面会に行った。
エリオットは何も言わなかった。ただ、また建物の外で待っていた。
面会室に入ると、白峰さんは昨日と同じ場所に座っていた。目は腫れていたけど、少しだけ落ち着いて見えた。
「また来てくれたんですね」
「……聞きたいことがあったから」
私はアクリル板の前に座った。
「白峰さん。一つだけ聞かせて」
「……なに?」
「今世で私にしたこと。プロジェクトの妨害、情報漏洩、あの呪詛空間。あれは全部、前世と同じ理由? 私を叩き落として、自分に依存させたかったから?」
白峰さんが、唇を噛んだ。
「……うん」
「あんたが最初に私に近づいてきた時。前の会社で、黒田のパワハラがひどかった時に『手伝いますよ』って声をかけてきた時。あの時から?」
「あの時……お姉様が私にExcelの使い方を教えてくれたんです。笑いながら。『こうすると楽だよ』って」
白峰さんの声が、また震え始めた。
「その瞬間に、全部思い出したんです。前世の庭園で、お姉様が私にお茶を淹れてくれた時と同じ手の動き。同じ笑顔。同じ温かさ。……そして、同じ痛みが蘇ったんです」
「痛み?」
「お姉様は完璧だから。いつも。どこでも。みんなに優しくて、みんなに慕われて。私なんかいなくても、お姉様は一人で立てる。いつだってそう。私を《《必要としてくれない》》んです」
白峰さんの目から、また涙がこぼれた。
「だからまた……同じことをしたんです。お姉様を引きずり下ろせば、今度こそ私に泣きついてくれるって。実家の力も全部使って、追いかけて。最低ですよね。わかってるんです。わかってるのに、止められなかったんです」
§ § §
私は、静かに告げた。
「あんたのしたことは許せない」
白峰さんが、ぴくりと震えた。
「前世で処刑台に送ったことも。今世で私のキャリアを潰そうとしたことも。仲間を巻き込んだことも。全部、許せない」
「……うん」
「罪は、ちゃんと償って。法律で決まった分は、全部」
「……うん」
白峰さんが、小さく頷いた。もう反論する気力もないように。
「でも」
私は、アクリル板に手を当てた。向こう側の白峰さんの手と、ガラス一枚分の距離。
「前世のあんたも、ずっと苦しかったんだと思う」
白峰さんの目が、大きく見開かれた。
「孤児で。利用されて。歪められて。好きな人に好きって言えなくて、愛し方がわからなくて。……私も、似たようなもんだったから」
「お姉様……」
「私も孤児だよ。今世では施設育ち。名前だって、七番目に保護されたから『奈々』。親の愛情なんか知らない。自己評価は底辺。ブラック企業で潰されかけてた。あんたとは方向が違うだけで、同じくらい歪んでた」
白峰さんが、声を失った。
「だからわかる。あんたの痛みが全部わかるとは言わない。でも、少しだけ——ほんの少しだけ、わかる気がする」
アクリル板の向こうで、白峰サヤカが崩れ落ちた。
椅子から滑り落ちて、床に膝をついて、声を上げて泣いた。今までの、声を殺した泣き方じゃない。子供みたいな、剥き出しの号泣だった。
「お姉様ぁ……っ」
面会室に、白峰さんの泣き声が反響した。
私は、アクリル板に手を当てたまま、黙ってそこにいた。
——許せない。それは本当だ。
でも、この子の涙は本物だ。
前世の因果が、少しだけ——ほんの少しだけ、溶けていく音がした。
§ § §
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
「許せない。でも、あんたも苦しかったんだと思う」
許すことと、理解すること。赦しと断罪。その狭間で、奈々が出した答えは——。
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