第69話:白峰サヤカの涙(後編)
アクリル板越しの白峰さんは、しばらく黙って私を見つめていた。
その目に宿る光が、今までと違う。
職場で見せていたゆるふわの笑顔はない。プロジェクトで私を陥れようとしていた時の、あの計算高い冷たさもない。
代わりにあったのは、底の見えない深淵のような――哀しみだった。
「お姉様」
白峰さんが、もう一度そう呼んだ。
「……その呼び方、やめてくれない? 私はあんたのお姉様じゃない」
「ううん。お姉様はお姉様ですよ。カレンシュお姉様」
心臓が、どくんと跳ねた。
「……あんた、前世の記憶が」
「全部、戻ったんです」
白峰さんの声は、不思議なほど穏やかだった。留置場に入れられて、全てを失って、それでもなお——いや、全てを失ったからこそ、何かの殻が割れたような。
「ここに入って、一人になって。眠れない夜が続いて。そしたら……堰を切ったみたいに、全部思い出したんです。前世のこと。聖女フィオだった頃のこと。全部」
§ § §
白峰さんが、ぽつぽつと語り始めた。
「私ね、孤児だったんです。前世でも」
知っている。キャラクターシートの——いや、違う。それは設定じゃない。この女の人生だ。
「神殿に拾われて、『聖女』の素質があるって言われて。嬉しかった。初めて自分に価値があるって思えたんです」
白峰さんの目が、遠くを見ていた。アクリル板の向こうの壁ではなく、もっと遠い、数百年の彼方を。
「でも、神殿の大人たちは私を道具にしたかっただけでした。枢機卿は私の『神の声が聞こえる』能力を政治に利用して、自分の権力を拡大させた。国王は聖女の人気を税収に利用した。誰も私を見てくれなかった。『聖女フィオ』という看板だけが必要で、中身の私なんかどうでもよかったんです」
声が震えた。
「そんな時に、カレンシュお姉様が——あなたが声をかけてくれた」
§ § §
前世の記憶が、私の中でも蘇る。
宮廷の庭園。噴水の前で一人座っていた少女。金髪の、小柄な女の子。聖女と呼ばれていたけど、その横顔はただの寂しい子供だった。
——あの子、いつも一人だな。
そう思って、声をかけた。それだけだった。
「『一人? 一緒にお茶しない?』って」
白峰さんが、私の記憶をなぞるように言った。
「たったそれだけでした。でも、それが私の人生で初めてだったんです。『聖女様』じゃなくて、ただの『フィオ』として誰かに声をかけてもらえたのは」
「……」
「お姉様は完璧でした。伯爵家の令嬢で、頭が良くて、みんなに慕われていて。私は……何もなかった。聖女の力以外、何も。お姉様みたいになりたかった。でも、なれなかったんです」
白峰さんの手が、アクリル板に触れた。指先が白くなるほど、強く。
「お姉様が完璧であればあるほど、私は自分が惨めでした。大好きなのに。大好きだからこそ、釣り合わない自分が許せなかったんです」
§ § §
「そこに枢機卿が囁いた」
白峰さんの声が、一段低くなった。
「『カレンシュを失脚させれば、あの方はあなたに頼るしかなくなる。あなたが救ってあげればいい。そうすれば、あなたはカレンシュにとってかけがえのない存在になれる』」
吐き気がした。子供の孤独につけ込んだ、最低の囁きだ。
「馬鹿ですよね。私、本当に馬鹿でした」
白峰さんが、自嘲するように笑った。涙が頬を伝っている。
「お姉様を処刑台に送れば、ボロボロになったお姉様が私に泣きついてくれると思ったんです。『助けて、フィオ』って。そしたら私が全部救ってあげる。私だけがお姉様の救世主になれる。そういう……狂った夢を見てたんです」
「でも、私は——」
「うん。お姉様は、最後まで毅然としてた」
白峰さんの涙が、止まらなくなった。
「処刑台の上で、一度も私を見てくれなかった。一度も『助けて』って言ってくれなかった。真っ直ぐ前を向いて、最後まで——」
声が途切れた。
「私が欲しかったのは、お姉様の『助けて』だったのに。それだけが欲しかったのに。お姉様は最後まで、私を必要としてくれなかったんです」
§ § §
面会室が、しんと静まった。
アクリル板の向こうで、白峰サヤカが——前世の聖女フィオが——声を殺して泣いていた。
私は、何も言えなかった。
怒りはある。許せない気持ちもある。前世で処刑台に送られたことも、今世で陰謀を仕掛けられたことも。
でも、目の前の女の涙は、演技じゃなかった。
あの計算高い白峰サヤカの仮面が全部剥がれ落ちて、その下にいたのは——ただの、愛し方を知らない子供だった。
「カレンシュお姉様」
白峰さんが、涙の向こうから私を見た。
「やっぱり、お姉様だったんですね。この世界でも、お姉様だった」
「……うん」
「ごめんなさい」
その一言は、前世と今世の、全てを含んでいた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
アクリル板に額を押しつけて、白峰さんは繰り返した。壊れたように、何度も何度も。
私は、アクリル板のこちら側で、静かに座っていた。
まだ、何も言えなかった。
でも、逃げなかった。
面会時間の終了を告げるブザーが鳴るまで、私はそこにいた。
§ § §
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
前世の聖女の記憶が完全に蘇った白峰サヤカ。
「お姉様を引きずり下ろせば、私に泣きついてくれる」——狂気の庇護欲の裏にあったのは、ただの孤独な少女の、歪んでしまった愛でした。
フォロー・応援(♡)・★での評価が、続きを書く力になります!
感想・コメントは全件お返事します。「白峰の過去が辛い」「枢機卿が最低すぎる」「アクリル板越しの涙で泣いた」なんでも嬉しいです!




