第63話:アレルギー、寛解の兆し(後編)
その日から、朝のキスが変わった。
以前は、目覚まし時計のスヌーズを止めるような義務感で行っていた。
「はい魔力供給の時間です」「はいどうぞ」「はい終わり」。五秒の業務。感情はゼロ。
でも、今はちょっとだけ違う。
ちょっとだけ。ほんのちょっとだけ、だ。
「……行くよ」
「うん」
向き合う。近づく。
エリオットの蒼い目を見る。
ポーカーフェイスの向こう側に、微かな緊張が見える。この男、何百年生きてても、こういう場面では初心なのだ。
(バカだなあ)
唇が触れた。
今日も、温かい。
魔力が流れる。自然に、スムーズに。以前のような「引き出される」感覚がない。自分の方から差し出している。
離れた後、頬が熱い。
でも、以前のように強烈な動悸や拒絶反応が出ない。
「……エリオット」
「何だ」
「これ、前と感覚が違うんだけど」
「うん。魔力の接続効率が、以前の三倍ほどになっている。君の魔力が自発的に流れてくるようになったからだ」
「なんで?」
「……わからない。推測だが、君の中の魔力タンクが、私との接続を『拒絶』ではなく『受容』し始めた可能性がある」
「なにそれ」
「つまり。君の魂が、私を……」
エリオットの言葉が、途中で止まった。
止めたのではなく、言えなかったのだ。蒼い目が泳いでいる。ポーカーフェイスが微かにひび割れている。
「なに? 私の魂が何?」
「……何でもない」
「おいこら」
私は身を乗り出した。エリオットが「何でもない」で逃げると思ったら大間違いだ。六年間のブラック企業で鎚えた「核心を吐かせる」技術を舐めるな。
「私の魂が、あんたを、何?」
詰め寄った。六畳一間は狭い。逃げ場がない。
エリオットの蒼い目が、至近距離で揺れた。
「……受容、と言っただろう」
「うん」
「君の魂が、私を『受容』し始めた。それは……その、つまり」
エリオットの耳が赤くなった。あの鉄壁のポーカーフェイスの男の、耳が。真っ赤に。
「……やはり、これ以上は言えない」
「呢縛のせい?」
「……呢縛のせいだ。そういうことにしてくれ」
絶対呢縛のせいじゃない。あんたただ照れてるだけだろ。
でも、それ以上は追及できなかった。
だって、私の心臓も、さっきからとんでもないことになっていたから。
エリオットが目を逸らした。その横顔の耳は、まだ赤かった。
§ § §
昼休み。
会社のデスクで、ぼんやりと考えていた。
(イケメンアレルギーが治りかけてる? いや、正確には「治った」んじゃなくて「エリオット限定で反応が変わった」)
他のイケメンを見ても、まだ普通にドキドキする。テレビの俳優やアイドルを見ると、反射的に警戒心が働く。「イケメン=裏切り」の公式は、まだ消えていない。
でも、エリオットだけは違う。
あの完璧な造形の顔を見ても、恐怖が来ない。代わりに来るのは――
(何だろう、これ。安心? 信頼? いや、もうちょっと違う何か)
スマホを取り出した。メッセージを打とうとして、やめた。
何を打てばいいかわからない。「今日のお弁当美味しかった」だと普通すぎるし、「キスの感覚が変わった件について」だと重すぎる。
結局、何も打たずにスマホをしまった。
五分後、取り出した。
「帰りに卵買って帰るけどいる?」と打った。だし巻きの材料。それなら自然だ。
三秒で返信が来た。
『卵はある。だが、君の好きな海苔が切れた』
何で私の好きな具材を知っているのだ。言った覚えないのに。
顔が熱くなって、「買って帰る」とだけ返した。
向かいの席の同僚が「小松さん、顔赤いですけど、彼氏さんですか?」と言ってきたので、「同居人です」とだけ答えた。それ以上の説明は不可能だった。
§ § §
帰宅後。
六畳一間の壁際に置かれた、小さな二人掛けのソファに座ってテレビを見ていた。
「結局、ソファ作っちゃったんだ」
「君を硬い床に座らせるわけにはいかない。空間拡張を伴わない、単なる物質錬成だ。魔力消費は微々たるものだから安心してくれ」
「ふうん。でもこれ、前の王宮仕様のに比べてだいぶ小さくない?」
「設置面積が足りない。それに、魔力節約のためだ。我慢してくれ」
真顔で言い切るエリオットだが、二人で座ると肩と肩がぴったり触れ合うサイズ感だ。絶対にわざとだ。この男、魔力消費を抑えるという名目で、いかに私と密着するかを限界まで計算している。
ニュース番組が流れている。足元ではるんすけが、狭くなった床を器用に避けて掃除をしていた。
ふと、テレビの映像がぶれた。
いや、映像がぶれたのではない。私の視界がぶれた。
一瞬だけ。テレビの画面が消え、代わりに別の光景が映った。
宮廷の大広間。蝋燭の明かり。見覚えのある回廊。
だが、何かがおかしい。自分の記憶の中の宮廷と、微妙に違う。壁の装飾が異なっている。窓の形が違う。
(これ……私の記憶じゃない?)
フラッシュバックは一瞬で終わった。テレビの画面が戻る。
心臓がドクドクと鳴っている。
(今のは何? 前世の記憶のフラッシュバックは前からあったけど、今のはいつもと違った。あの宮廷は、私が知っている宮廷とは、少し違う場所だった)
もしかしたら、自分の記憶ではなく、「改変後の未来」の光景――つまり、まだ起きていない出来事の記憶が見えたのかもしれない。
だが、その仮説は私の理解を超えていた。
キッチンからエリオットの声がした。
「夕食ができた。君の要望通り、今日は七個にしようとしたが、フライパンの限界で五個になった」
「多いって」
テレビを消して、ちゃぶ台についた。
フラッシュバックのことは、今は考えないことにした。
だし巻きが五個置いてある。結局海苔も買って帰ったので、六個だ。
「海苔入り、別に作った」
「……ありがと」
自然に出た「ありがと」に、自分で驚いた。以前なら「別に頑んでないし」とか「ふーん」とか、その程度だったのに。
エリオットが一瞬だけ目を見開いて、すぐに真顔に戻った。でも、箸を持つ手が、ほんの少しだけ止まっていた。
「今日のだし巻きは、いつもより上手くできた」
「そう? いつもと同じだけど」
「材料がいい」
「卵と出汁だけじゃん」
「君が買ってきた海苔がいい」
からの「君が」に力点があった気がする。気のせいかもしれない。気のせいだと思いたい。
最後の一個に箸を伸ばしたら、またエリオットの箸と衝突した。昨日と同じだ。
でも今日は、譲り合いはしなかった。
「半分こ」
私が言った。自分でも何を言っているのかよくわからなかった。
だし巻き卵を箸で二つに切って、片方をエリオットの皿に置いた。
エリオットは、数秒間、それを見つめていた。
「……いただく」
その声が、いつもより少しだけ、柔らかかった。
だし巻きは、相変わらず美味しかった。
海苔入りの方が、もっと美味しかった。
§ § §
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
イケメンアレルギーが、エリオット限定で寛解しつつある。怖くない。拒絶しない。魔力すら自発的に流れる。
「アレルギーが治りかけてる? いや、エリオット限定で? それって……」——自分の気持ちに気づきかけている私。
そして、奇妙なフラッシュバック。「自分の記憶とは少し違う光景」。この現象が何を意味するのか、まだ誰にもわかりません。
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