第62話:アレルギー、寛解の兆し(前編)
白峰さんの事件から一週間が経った。
日常が戻ってきた。
少し形を変えて。
まず、大きな変化。エリオットが魔法を自粛している。
空間拡張の結界が解除されたので、部屋は元の六畳一間に戻った。王宮スイートルーム仕様の広大なリビングがなくなり、二人で暮らすにはかなり狭い。
「せまっ」
「すまない。結界を維持する魔力がない」
「いやいい。元々こういう部屋だったんだよ。むしろ懐かしい」
六畳一間。万年床。台所は二人立つと身動きが取れない。風呂は追い焚き機能なし。
でも、なんとかなった。前の会社で六年間、この部屋で生きていたのだから。
夕食も変わった。魔法の全回復ディナーはなくなり、エリオットが手作りで作る普通のご飯。
……普通のご飯と言っても、あの男が本気で作ると素材の味を引き出す腕前は魔法並みなので、正直そこまで差がない。
「これ、鶏の唐揚げ。衣はまだちょっと分厚いけど、味は合格だと思う」
「おいしい」
「でしょ。二週間で百回揚げた」
「いつの間に」
食卓を囲みながら、六畳一間の床に座って、だし巻き卵をつつく。
ちゃぶ台が小さいから、向かい合うと膝が当たる。以前なら即座に引いていたのに、今日はなんとなくそのままにしてしまった。
「……奈々」
「ん?」
「口元に、衣がついている」
エリオットの指が伸びてきた。私の口元に触れる直前で、はたと止まる。
蒼い目が、一瞬だけ揺れた。まるで自分の行動に自分で驚いたかのように。
「……すまない。つい」
「え、いや、自分で取れるから!」
慌てて口元を拭う。でも、指の残像がまだ唇の近くに残っている気がして、顔がじわじわ熱くなる。
エリオットはもう何事もなかったかのように箸を動かしている。ポーカーフェイス。完璧な真顔。
でもよく見たら、耳の先がほんの少しだけ赤い。
(……あんたも動揺してるじゃん)
だし巻き卵に箸を伸ばしたら、同じタイミングでエリオットの箸と衝突した。カチッ、と小さな音。
「どうぞ」
「いや、あんたが先に」
「譲るべき理由がない。君が先にどうぞ」
「理由って……もういいからあんたが食べて!」
だし巻き卵一個で三往復する謎の攻防。六畳一間のちゃぶ台は狭い。距離が近い。
こっちの方が、いいかもしれない。
王宮の大テーブルより、ずっと。
§ § §
そして、もう一つの変化。
翌朝。
いつものルーティン。朝の魔力供給。
「……じゃあ、やりますか」
「うん」
エリオットがソファに座っている。私がその隣に座る。
向き合う。蒼い目と、黒い目。
これまでは、業務だった。
「殺されないための事務的な魔法給油」。感情を排して、事務処理として、淡々とキスをしていた。
いや、正確には淡々と「やろうとしていた」。実際にはイケメンアレルギーのせいで毎回パニックになっていたけど。
だが今朝は、少し違った。
エリオットの顔を見つめた。
蒼い目。銀髪。完璧な顔の造形。氷のポーカーフェイス。
以前なら、この顔面を見た瞬間に動悸が加速し、胃がひっくり返り、「イケメン=裏切り=物理的脅威」のアラートが全力で鳴り響いていたはずだ。
でも今は。
(……うん、まだちょっとドキドキはする。でも、怖くはない)
怖くない。
この男は、私のために命を削っていた。助けに来ようとして血を吐いて倒れた。だし巻きを百回焼いた。
怖い男じゃない。
バカな男だ。
少し身を乗り出した。
エリオットが、かすかに息を呑んだ。いつもは自分から動くことはないのに、今日は私の方から距離を詰めている。
唇が触れた。
魔力が流れる。微かな光が、二人の間に瞬いた。
――いつもと、感覚が違った。
以前は「冷たい水が流れ出す」ような感触だった。自分の中の何かが吸い取られている、ちょっと不快な感覚。
でも今は、「温かい」。
胸の奥から何かが自然に流れ出して、相手に注がれていく。不快さがない。むしろ――
(……心地いい?)
びっくりして、離れた。
エリオットが、蒼い目を見開いていた。
いつもの鉄壁のポーカーフェイスに、微かなひびが入っている。
「今の……魔力の流れが、変わった」
「え?」
「今まで無理やり引き出していた分が、自然に流れてきた。まるで……君の方から、差し出されたような」
私の頬が、かっと熱くなった。
「い、今のは事故! ただの生理現象!」
「生理現象でキスはしない」
「してるんだよこの世界では!」
立ち上がって、キッチンに逃げた。コップを取ろうとして棚にぶつけた。水を注ごうとして半分こぼした。手が震えている。でも、恐怖のせいじゃない。
(何今の。何今の何今の)
背後に、気配。
振り返ると、エリオットがキッチンの入口に立っていた。二人立つと身動きが取れない狭いキッチンの、入口いっぱいに。逃げ場がない。
「な、何」
「水をこぼしている」
「わかってるわよ!」
エリオットが、静かに一歩踏み込んだ。キッチンが一気に狭くなる。彼の体温が、背中越しに感じられるほどの距離。
手を伸ばして、私の手からコップを取った。布巾でカウンターを拭き、コップに水を注ぎ直し、私の手に戻す。
その一連の動作が、やけに丁寧だった。
「……飲め。落ち着く」
「あ、ありがと……」
水を飲んだ。冷たい。手はまだ震えている。エリオットはその手をじっと見つめてから、何か言いかけて、やめた。
代わりに、一言だけ。
「いつもより、美味しかった」
「は? 水が?」
「キスが」
真顔で爆弾を落として、エリオットはキッチンから出ていった。
(死ぬ。心臓が止まって死ぬ)
心臓が暴れている。
でも、これはイケメンアレルギーの動悸じゃない。もっと違う、もっと柔らかい、もっと甘い振動。
(まさか)
§ § §
夜。問題が発生した。
「ソファは?」
「空間拡張の結界と共に消滅した。あのソファは魔法で生成したものだ」
「…………」
つまり。六畳一間に、布団が一組。以上。
「あんた、床で寝て」
「構わない。床の冷たさなど、亜空間に比べれば温泉のようなものだ」
さらっと重い過去を混ぜないでほしい。罪悪感が湧くじゃないか。
「……わかった。布団、半分貸す。ただし、一ミリでもこっちに寄ったら殺す」
「一ミリは物理的に不可能だが、善処する」
布団を敷いた。シングルの布団に、二人。
背中合わせで横になる。六畳一間の蛍光灯を消すと、窓の外の街灯がうっすらと部屋を照らした。
背中が、触れている。
エリオットの体温は、以前より少し温かかった。魔力が安定してきているのかもしれない。
心臓がうるさい。絶対に聞こえている。背中越しに伝わっている。
「……奈々」
「寝て」
「ああ。おやすみ」
「……おやすみ」
眠れるわけがなかった。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
§ § §
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
白峰さんの事件を乗り越えて、私とエリオットの関係に明確な変化が。
いつもの「事務的な魔力供給」が、今朝は少し違った。怖くない。心地いい。そして魔力の流れ方まで変わった。
これは……イケメンアレルギーの寛解? それとも——。
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