第64話:初めての「ありがとう」(前編)
土曜日の朝。
目が覚めると、エリオットがキッチンに立っていた。
狭い台所で、卵を割っている。魔法なし、手作り。冷蔵庫に貼ってある「エリオットの料理上達記録」のポストイットメモが、だし巻きのところに赤丸がついている。
「おはよ」
「おはよう。朝食を作っている」
「見ればわかるよ」
布団から起き上がって、顔を洗った。六畳一間の部屋だから、キッチンまで三歩。狭いけど不便ではない。というか、六年間こうだったんだから慣れてる。
食卓について、だし巻き卵をつついた。相変わらず美味しい。
エリオットが向かいに座った。蒼い目がまっすぐこちらを見ている。顔色はだいぶ戻ってきたが、まだ本調子ではない。
「今日は仕事じゃないよね。何する?」
「特に予定はない」
「じゃあ、買い物でも行く? 冷蔵庫の中、卵とネギしかないんだけど」
「私は外出に慣れていないが」
「私がいれば大丈夫でしょ。あんた、一人で外に出ると自動ドアに結界判定するからね」
「あれは初日の話だ。今は適応している」
嘘つけ。先週コンビニの自動ドアに身構えてたの見たぞ。
§ § §
池袋の商店街を歩いた。
エリオットと並んで歩くのは、実は初めてだった。
これまでは、彼が外に出ることがほとんどなかった。魔力温存のための瞑想に一日の大半を費やしていたからだ。
だが、今は魔法の大半を停止している。外出する余力がある。
銀髪の長身の美青年が隣を歩いていると、道行く人がちらちらと振り返る。モデルか芸能人だと思われているらしい。認識阻害の結界が弱まっているから、以前より目立つのだ。
「なんか目立つね、あんた」
「認識阻害を最低限に絞っているからだろう。以前は『この人を気にする必要はない』という意識誘導をかけていたが、今は『明らかに怪しい存在ではない』程度にしか抑えられていない」
「要するに、怪しくはないけど目立つ、ってこと?」
「そうだ」
「普通のイケメンとして認識されてるってことだね」
「イケメンとは何だ」
「知らなくていいよ」
スーパーに入った。エリオットが野菜コーナーで、白菜を手にして値札を真剣に見ている。何百年も生きた大魔法使いが、白菜の一玉と二分の一のどちらが得かを計算している。シュールすぎる。
「エリオット、それは二分の一の方がいいよ。一玉買うと二人じゃ食べきれない」
「了解した」
カゴに食材を入れていく。卵、鶏肉、白菜、豆腐、長ネギ。今日は鍋にしよう。
レジに並んでいる時、ふと考えた。
この光景。日曜日に二人でスーパーに買い物に来て、食材を選んで、家で鍋を囲む。
これは普通の――普通のカップルがやることじゃないの?
(いやいやいや。私たちは同居してるだけ。ルームメイト。家賃は払ってないけど)
エリオットをちらりと見た。
レジの列で真顔で立っている銀髪の美青年。手にはカゴ。中身は白菜と豆腐。この男が永き時を生きた大魔法使いだなんて、誰にもわからない。
(……なんか、いいな。こういうの)
自分の心臓が、ぽこんと一回跳ねた。
§ § §
夕方。鍋を囲んだ。
六畳一間の真ん中にカセットコンロを置いて、土鍋でぐつぐつ。
エリオットは初めての鍋に感動していた。
「食材を共有の容器から直接取るのか。この文化、興味深いな」
「日本の冬の風物詩だよ。……もう春だけど」
「味が変化していく。最初は昆布出汁だが、野菜と肉の旨味が加わって――」
「うん、そう。それが鍋の醍醐味。最後にうどん入れるからね」
「うどんとは」
「麺だよ。この出汁で煮るとめちゃくちゃ美味しいの」
鍋の湯気の向こうで、エリオットの蒼い目がほんの少しだけ柔らかくなった。いつもの氷のポーカーフェイスが、微かに溶けている。
私は箸を止めた。
今だ、と思った。
§ § §
「エリオット」
「何だ」
「……ちょっと、言いたいことがある」
エリオットが、わずかに身構えた。彼の「身構え」は表情ではなく、蒼い目の奥の光が一段階鋭くなることでだけ読み取れる。
「怒ることじゃないよ。たぶん」
「たぶん、というのが怖いが」
「……あのね」
箸を置いた。
鍋の湯気が、二人の間に立ち上っている。
「あんたが来てくれたから、私は変われた」
言った。
声が震えなかったのは、奇跡だと思う。
「前の会社で潰れかけてた時、あんたが部屋に落ちてきて。最初は死ぬほど怖かったけど。でも、あんたが作ってくれるご飯を食べて、あんたの過保護な千里眼に見守られて、少しずつ……『自分はもう戻れないわけじゃない』って思えるようになった」
エリオットは、何も言わなかった。
蒼い目が、じっと私を見つめている。
「逃げずに済んだ。公安に連行されかけた時も、白峰さんに裏切られた時も、全部自分でやり遂げられたのは……あんたがいてくれたから」
鍋がぐつぐつ言っている。
六畳一間で、鍋の音だけが響いている。
「だから……」
私は、視線を落とした。鍋の中の白菜を見つめた。白菜に向かって話すのは変だけど、エリオットの顔を正面から見ながら言う勇気がなかった。
§ § §
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
スーパーで白菜を選ぶ大魔法使いと、鍋を囲む六畳一間。ようやく「普通」になりかけてきた二人の日常。
私がついに、伝えようとしています。ずっと言えなかった言葉を。鍋の湯気の向こうで——。
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