第44話:令嬢の交渉術(中編)
会議室が凍りついた。
「小松さん……通訳を?」
朝倉座長が眼鏡の奥から厳しい目で見つめている。期待ではなく、確認の目だ。WAGEプロジェクトの場で軽口を叩く人間ではないと知っている。だからこそ真意を測っている。
「はい。英語とインドネシア語は前職の実務で日常的に使用しておりました。タイ語は会話レベルですが、今日の議題であれば対応できます」
経産省のエリートが眉を上げた。隣の外務省の担当者が、信じられないという顔で資料をめくっている。中小企業の元一般職が三カ国語?
嘘だと思われている。当然だ。
でも嘘じゃない。
前世のカレンシュは、隣接する三カ国との外交文書を原語で読み、交渉の席で直接対話していた。言語の記憶は、魂に刻まれている。今生でも、前の会社の国際貿易業務で英語とインドネシア語は実務使用していた。タイ語は独学だが、貿易関連の専門用語なら問題ない。
朝倉座長が数秒間沈黙した後、静かに頷いた。
「……分かりました。今から追加の通訳を手配する時間もありません。小松さんにお願いいたします。ただし、問題が生じた場合は即座に中断します」
「承知いたしました」
私は胸を張って応えて見せた。
頑張れと、どこからか、エリオットの声が聞こえた気がした。
§ § §
会議開始十分前。
私はラップトップの前で、深呼吸した。
画面には三つのウィンドウ。それぞれの国の代表がオンラインで待機している。
手が震えている。
嘘だ、怖くないなんて。三カ国の政府高官を前にして、通訳と説明を同時にこなす。失敗すれば数千億円規模のプロジェクトに致命的な遅延が生じる。外交問題にもなりかねない。
スマホが一瞬だけ光った。エリオットからのメッセージ。
『見ている。大丈夫だ、カレンシュ』
(だから加齢臭って言うなって……! って言ってないからこれはエリオット的にはセーフなのか)
あいつ、前の名前も大好きだもんね。口に出してはいないからここは目をつぶろう。
いつもなら嫌ワードだが、今だけは少しだけ心が軽くなった。
あの男が見ている。千里眼で、どこかからずっと見守っている。
深呼吸をもう一度。
広大なマホガニーの円卓を挟んで、タイの政府高官が手元の書類に目を通している。インドネシアの担当者が時計をちらりと見た。マレーシアの代表は静かにお茶を飲んでいる。
「それでは、会議を始めます」
朝倉座長が宣言した。
§ § §
最初の十分間で、会議室の空気が完全に変わった。
「Regarding the tariff exemption framework for the special economic zone, we have prepared a revised proposal. The key amendments are as follows――」
私が流暢な英語で説明を始めた瞬間、経産省のエリートがペンを落とした。ふふ、実はかなりネイティブな発音が出来るのだ。
「ขออภัยครับ สินค้าเกษตรแปรรูปของเรา จะรวมอยู่ในข้อยกเว้นนี้ด้วยหรือไม่ครับ?」
(……失礼。この特例措置に、我々の農水産加工品は含まれるのでしょうか?)
円卓の向かいから、タイの政府高官がふと探りを入れるように母国語で尋ねてきた。通訳不在の状況で、どこまで対応できるか試してるのね。まぁ無理もないか。
「ใช่ค่ะ สามารถใช้ข้อยกเว้นตามประกาศฉบับที่สามได้ค่ะ รายละเอียดระบุไว้ในเอกสารแนบนะคะ」
(はい。第三号通達に基づく特例として適用可能です。詳細は添資料に)
一切の淀みのない、流暢な発音(khrubやkhaの丁寧な響きまで)による即答。意地悪な質問をした高官の目が丸くなり、次いで嬉しそうに深く頷いた。
「Permisi, berapa lama waktu yang dibutuhkan untuk proses bea cukai dengan kerangka baru ini?」
(すみません、新枠組みでの通関手続きにはどれくらい時間がかかりますか?)
「Prosesnya akan dipersingkat menjadi maksimal dua hari kerja, Bapak.」
(最大二営業日に短縮されます、担当官殿)
息をつく間もなく、今度はインドネシアの担当者の懸念に対し、完璧なジャカルタのビジネス敬語(Bapakを添えた丁寧な表現)で即座に補足する。
三つの言語が、同じ口から滑らかに切り替わる。
しかもただの通訳ではない。各国の文化的な慣習を踏まえた言い回し――タイの高官にはkhrubを使った敬意表現で、インドネシアの担当者にはジャカルタのビジネス敬語で、それぞれの国の「心地よい距離感」を完璧に設計した対話。
これは前世で得た技術だった。
カレンシュ・ハーゲンは、七歳から隣国の客人をもてなす教育を受けていた。十二歳で三カ国語を習得し、十五歳では国際会議の末席に座り、十八歳では堂々と外交の最前線に立っていた。
言語は、ただの道具ではない。
相手の文化を理解し、敬意を表し、信頼を勝ち取るための武器。
この世界に生まれ変わってからも、異なる言語を習得する技術は健在で、カレンシュならぬ『小松奈々』としての私も時間を見つけては異国の言語を学んでいた。
言葉は武器にも道具にも、そして意思を伝えるための架け橋にもなる。
前世の貴族教育で叩き込まれた「人の心を掴む外交術」が、現代の会議室で完全に再現されていた。
§ § §
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
限界OL改め、前世の外交令嬢が大暴れする見せ場でした!
通訳不在の絶望的状況を、三カ国語で突破する姿を書けてスッキリしています。
次回(後編)、この熱気の中で彼女が提示する「第三の選択肢」とは――。
白峰さんの罠を完全に終わらせます。
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