第43話:令嬢の交渉術(前編)
月曜日の朝。出勤して席につくと、すでに朝倉座長からメールが届いていた。
件名:【至急】今週水曜・海外政府高官の来日協議について
開いた瞬間、コーヒーを吹きそうになった。
「参加国」の欄に、三カ国の名前が並んでいる。東南アジアの主要貿易パートナー。経済特区の実現には、この三カ国との合意が絶対条件だった。
そして「本会議における通訳」の欄に、外務省の専属通訳官の名前。前の会議でも通訳をしてくれた、ベテランの方だ。
「議題」の欄を読み進める。関税免除の範囲、投資に関する二国間協定の修正案、物流インフラの共同整備。どれも超重要案件。一つ間違えれば、プロジェクト全体が白紙に戻りかねない。
(水曜……あと二日。準備しなきゃ)
すぐに資料の作成に取りかかった。
§ § §
隣の席で、白峰が自分の画面を見つめながら、微笑んでいた。
データ改竄は通じなかった。Excelのトラップも通じなかった。
なら、次はもっと根本的なところを攻める。
奈々の実務能力は完璧だ。データ上の罠では勝てない。
だが、「人」はどうだろう。
白峰の瞳が、一瞬だけ昏く光った。
§ § §
水曜日の朝。
会議まであと三時間。
奈々は念入りに資料の最終チェックをしていた。三カ国分のデータ、法的根拠、シミュレーション結果。全て完璧に揃っている。あとは会議で、通訳の力を借りて各国の高官に説明するだけ。
そのタイミングで、白峰が給湯室に入った。
通訳担当の高橋氏が、ちょうどお茶を入れていた。
「高橋さん、お疲れ様ですぅ。今日も大変ですね」
「ああ、白峰さん。いえいえ、仕事ですから」
高橋氏の背中に、白峰の影がそっと重なった。
その瞬間――白峰の指先から、目に見えない何かが放たれた。
聖女の微細な呪詛。
「魔法」ではない。「神の力」による、ごくわずかな身体機能の干渉。自律神経を乱す程度のもの。魔力残滓はゼロ。エリオットの探知には絶対に引っかからない。
高橋氏は何も感じなかったはずだ。お茶を飲んで、いつも通り席に戻った。
だが、一時間後――
「す、すみません……急に気分が……」
高橋氏が青い顔で席を立った。冷や汗が額に浮かんでいる。明らかに体調不良だ。
周囲がざわめいた。会議の二時間前。通訳担当者が倒れた。
「高橋さん、大丈夫ですか!?」
奈々が駆け寄る。高橋氏の額に手を当てる。熱はない。だが顔色が異常に悪い。
「めまいが……すみません、少し横にならせてください……」
朝倉座長が厳しい表情で状況を確認している。
「高橋さんの代役は手配できますか」
担当者が首を振った。
「今日の会議は三カ国語の同時対応が必要です。英語とタイ語とインドネシア語を全てカバーできる通訳官は、外務省でも高橋さんしか……」
会議室が沈黙した。
三カ国の政府高官は、それぞれの国のスケジュールを調整して、この日のこの時間に合わせてくれている。リスケは外交上の非礼になる。かといって、通訳なしで会議を強行すれば、誤解と齟齬の嵐になる。
詰んだ。
白峰は、さりげなく奈々の表情を窺う。
(さあ、どうします? お姉様。通訳がいない。資料は完璧でも、言葉が通じなければ意味がない。ここから這い上がれます?)
奈々の顔を見た。
――笑っていなかった。
だが、怯えてもいなかった。
奈々の瞳に、あの光が灯っている。前世の処刑台で見た、あの毅然とした輝き。
奈々が立ち上がった。
「朝倉座長。一つ、ご提案があります」
会議室の全員の視線が集まった。
「私が通訳を兼務します」
§ § §
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
白峰さんの攻撃がさらにエスカレートしました。データではなく「人」を狙う。神の呪詛で通訳官を倒し、奈々を「言葉が通じない」絶望的な状況に追い込んだ――はずでした。
しかし奈々の瞳には、あの光が。前世で三カ国の外交を捌いていた令嬢のスキルが、ついに本格発動します。
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