第42話:完璧な後輩の隠し事(後編)
異変が起きたのは、木曜日の午後だった。
物流セクションの週次レポートを作成していた時、Excelのマクロが突然止まった。
画面にエラーメッセージが表示される。「実行時エラー'1004': アプリケーション定義またはオブジェクト定義のエラーです」。
(あれ? 昨日まで普通に動いてたのに)
マクロのコードを開いた。VBAのエディタ画面をスクロールしていく。
変数の型宣言、ループ処理、参照先のセル範囲。一行ずつ追っていくと――
(ここだ)
見つけた。
参照先のシート名が、一文字だけ変わっている。「Sheet3」が「Sheеt3」になっている。Unicodeの全角「е」キリル文字のイー。見た目はほぼ同じだが、Excelにとっては別物だ。
(打ち間違い……? いや、私がこの文字を打つわけがない。日本語入力でキリル文字なんて出ない)
一瞬だけ、背中が冷たくなった。
でもすぐに、頭を振った。
共有フォルダのファイルだ。誰かが別のPCで開いた時に、文字コードの問題で化けたのかもしれない。前の会社でもたまにあった。UTF-8とShift-JISの混在問題。IT部門が国際化対応をサボると、だいたいこういうことが起きる。
修正は一秒で終わった。「е」を「e」に直して、マクロを再実行。問題なく動く。
「……よし」
何事もなかったかのように、レポートの作成を再開した。
§ § §
同じ時刻。
白峰は、奈々の三つ隣の席で、自分の画面を見つめていた。
(……直した)
一秒。たった一秒で。
白峰が仕掛けたのは、ただのUnicodeの置換だった。キリル文字の「е」とラテン文字の「e」は、画面上では見分けがつかない。普通の人間なら気づかない。気づいたとしても、原因を特定するのに数時間はかかる。
なのに奈々は、マクロのコードをスクロールして一秒で見つけた。
(エクセルの構文を、一行ずつ目視で追って、Unicode違いの一文字を見抜いた?)
前世のカレンシュは、国家財政の帳簿を一人で管理していた。何百ページもの数字の山から、一銭の誤差も見逃さなかった。あの異常な精度が、現代のExcel操作にそのまま転写されている。
白峰の指が、デスクの下で小さく震えた。
(大丈夫。これは想定内。最初から引っかかるとは思っていない。まだ序盤。もっと巧妙な罠を仕掛ければいい)
自分にそう言い聞かせる。
だが、胸の奥で、古い記憶が疼いた。
――お姉様は、いつもそうだった。
宮廷で仕掛けたあらゆる策略を、カレンシュは涼しい顔で切り抜けた。王宮の帳簿に仕込んだ不正も、外交文書に紛れ込ませた偽情報も、全て彼女の完璧な実務能力の前に無力だった。
結局、あの時も――枢機卿が力ずくで冤罪をでっち上げるしかなかった。「正攻法」では、カレンシュには勝てなかった。
(でも今回は違う。今回は枢機卿なんか必要ない。私一人で、全てを完遂する)
§ § §
金曜日。
今度は、データの数字を改竄した。物流コストの試算表に、小数点以下の微細なズレを複数箇所に仕込んだ。
一つ一つは誤差の範囲。だが積み重なれば、最終的な収支予測に数パーセントの乖離が生じる。そしてその乖離が表面化した時、「データを管理していた小松奈々の計算ミス」として処理される。
白峰は昼休みに、奈々の席が空いた隙をついて仕込みを終えた。
午後、奈々が試算表を開いた。
「……ん?」
奈々の手が止まった。
数秒間、画面を見つめている。
それからマウスを動かし、セルを一つずつクリックし始めた。
「白峰さん、ちょっとこれ見てくれない?」
隣に呼ばれた。心臓が跳ねたが、顔には出さない。
「はいぃ、何ですかぁ?」
「この試算表、なんか数字が微妙にズレてるんだよね。計算式は合ってるんだけど、元データの方が……」
奈々がスプレッドシートの元データを遡っていく。驚くべき速度だった。六年間の実務で培われたExcel操作が、まるで呼吸するように自然に指先から溢れている。
「あ、ここだ。この三箇所、小数点以下の数字が変わってる。先週のバージョンと照合すると……うん、変更履歴にも残ってないから、ファイル経由じゃなくて直接セルを触った人がいるのかも」
(変更履歴を無効化してから手動で入力したのに、先週のバックアップと照合された……)
白峰の笑顔が、わずかに引きつった。
奈々はそれに気づかない。
「まあ、マクロのバグと同じで、共有ファイルのあるあるだよね。念のためバックアップから復元しておくね。白峰さんの分もチェックしとく?」
「あ、大丈夫ですぅ! 先輩って本当にすごいですねぇ。こんな細かいズレ、私なら絶対気づかない……」
「いやいや、前の会社でExcelと添い遂げるレベルで向き合ってたからね。人間、六年もやれば嫌でも鍛えられるよ」
奈々は笑っている。あの、くたびれた、でもどこか温かい笑顔。
白峰への疑いは、かけらもない。
§ § §
帰りの電車の中。
白峰は窓に額をつけて、流れる夜景を見つめていた。
二つの罠。どちらも瞬殺された。
ただのミスとして処理され、白峰の関与を疑う者はいない。それは計画通り。
だが、そもそも罠として機能すらしなかったことが問題だった。
奈々の実務能力が、前世よりも強化されている。
六年間のブラック企業での酷使が、逆に彼女の処理速度と正確性を極限まで研ぎ澄ませてしまった。
あの頃のカレンシュは、宮廷の政務で鍛えられた。今の奈々は、終電帰りの地獄で鍛えられた。
入り口は違う。でも到達点は同じ――いや、むしろ現代のデジタル環境に最適化された分、今の方が厄介だ。
(いいわ。データ改竄程度で落ちるなら、お姉様じゃない)
白峰は手帳を開き、今日の記録を書き込んだ。
『罠2 失敗。先輩は相変わらず完璧。次はもっと大きな罠が必要。先輩を「ミス」ではなく「状況」で追い詰める。人の罠ではなく、環境を操作する。先輩がいくら優秀でも対応できない事態を作り出す』
ペンを止めて、前のページをめくった。
一番最初のページ。二年前、記憶が覚醒した日に書いた一行。
『今度こそ、お姉様を私だけのものにする』
白峰は手帳を胸に抱いて、目を閉じた。
§ § §
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
白峰さんが仕掛けた二つの罠――Unicodeの文字置換とデータ改竄。どちらも奈々の「前世+六年間ブラック企業」で鍛え抜かれたExcelスキルの前に、「ただのバグ」として瞬殺されてしまいました。
白峰の焦りと、奈々の無自覚な強さ。この温度差が、これから加速していきます。
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