EP 9
完全なる経済覇権と、見えざる鎖
血と火薬の匂いが夜風に流され、新しい朝の光がルナミス帝国の辺境を照らし出した。
数日後。
スラム街の朝は、かつてないほどの活気と『パンの焼ける匂い』に包まれていた。
「おじさん、パン三つちょうだい! お代はこれで!」
「おう、まいど! 確かにPG銅貨一枚だ。気をつけて帰れよ!」
路地裏を、焼きたてのパンを抱えた子供たちが笑い声を上げて駆けていく。
ゴミ箱を漁る者も、飢えに泣き叫ぶ赤ん坊の声も、もはやどこにもない。
ポポロ村から降り注いだ『黄金の雨』は、確実に末端の民衆たちの命を救い、街に笑顔を取り戻させていた。
『ズズズッ……。ボス、見てるッスか』
ポポロ村の厨房で仕込みをしていた龍魔呂の脳内に、ガジェットの念話が響いた。
次元の向こう側で、いつものようにコーラをすする音が聞こえる。だが、その声はどこか誇らしげだった。
『ドローンの映像、転送してるッス。……子供たち、腹一杯食って、笑ってるッスよ』
龍魔呂は、網膜に投影されたスラムの映像を見つめ、静かに目を閉じた。
そこには、彼がかつてどうしても救えなかった『弟の姿』を重ね合わせることができる、無邪気で幸せな子供たちの笑顔があった。
「……あぁ」
龍魔呂の口から、深く、本当に深い安堵の息が漏れた。
自分はずっと、冷たい雨の降るゴミ捨て場で立ち止まったままだった。
だが今、輝夜という月が照らし出した道の上に立ち、自分が引いた引き金(選択)が、確かに子供たちの命を繋いだのだと実感できた。
彼の心を長年縛り付けていた呪いが、朝靄のように溶けて消えていくのを感じた。
「……サンキューな、ガジェット」
『へへっ。どういたしましてッス』
◆ ◆ ◆
だが、表の光(笑顔)が眩しければ眩しいほど、裏の闇(真実)はより残酷にその輪郭を濃くする。
地下の戦略指令室では、義正がモニターに映し出された最終データを見て、満足げに赤マルを吹かしていた。
「……ルナミスの筆頭貴族、ダッジ伯爵の破産と失脚が正式に確定。帝国中央銀行はデフォルト(債務不履行)に陥り、法定通貨の機能は完全に停止した」
義正の隣で、蘭がチュッパチャプスを転がしながら報告を続ける。
「物理的にも、あっちが差し向けてきた暗殺部隊は信長と龍魔呂が完全処理済み。帝国側はもう、ポポロ村に手を出せる戦力も資金も残ってないよ」
「チェックメイトだ」
義正が、冷酷な資本家の顔で笑う。
モニターには、スラムの街角で交わされる大人たちの会話(音声データ)が流れていた。
『帝国の役人が戻って来いって喚いてるらしいが、誰が戻るかよ。あいつらの紙幣なんざ、もう何の価値もねぇ』
『あぁ。俺たちはもう、ポポロ・ゴールドの経済圏で生きるしかねぇんだ。もしポポロ村に見捨てられたら、今度こそ俺たちは全員、路傍で飢え死にする』
『……つまり俺たちは、帝国からポポロ村に首輪を付け替えられた、ただの奴隷ってことさ。だが、腹一杯食わせてくれるだけ、あっちの“ご主人様”の方が何百倍もマシってもんだ』
民衆は、決して愚かではない。
自分たちが救われたと同時に、ポポロ村という新たな巨大なシステムに『完全依存(支配)』させられた事実を、肌で理解していた。
輝夜は、その音声データを静かに聞いていた。
彼女の手の中には、一枚のPG金貨が握られている。
冷たく、重い、黄金の金属。
これが、彼らの命を繋ぐ希望であり、同時に彼らの自由を奪う『見えざる鎖』だ。
「……気に病むことはねぇよ、輝夜」
義正が、輝夜の背中越しに声をかけた。
「俺たちは悪党を潰し、ガキを救った。その対価として、奴らの経済(生殺与奪)を握った。完璧な取引だ。……それとも、やっぱり自分の手が泥で汚れたのが嫌か?」
挑発するような義正の言葉。
だが、振り返った輝夜の顔に、迷いや自己嫌悪の色はもうなかった。
あるのは、霞が関で日本の未来を背負い続けてきたトップ官僚としての、静かで恐ろしいほどの『覚悟』。
「いいえ」
輝夜は、PG金貨を卓上にカチン、と置いた。
「この首輪の手綱は、私が絶対に離さない。私が彼らの生活と命を、この手で最後まで握り続けるわ」
その言葉の重みに、義正も、そして部屋に入ってきていた信長も、思わず息を呑んだ。
彼女は、自身の善意がもたらした『支配』という罪から目を背けなかった。逃げることなく、その巨大な泥を真正面から飲み込んだのだ。
「月は、ただ優しく夜道を照らすだけじゃないわ」
輝夜は、静かに窓の外を見上げた。
青空の向こう側に透けて見える、昼の月。
「潮の満ち引きを支配し、海を動かすのも……月の持つ、絶対的な引力(重力)よ」
その圧倒的な「器」を前に、男たちはただ無言で、自分たちの惚れ込んだ女の横顔を見つめることしかできなかった。
かくして、ルナミス帝国との経済戦争は、ポポロ村の完全なる勝利(覇権)という形で幕を閉じた。
だが、彼らがこの世界で強大な力を持てば持つほど。
『それ』は、確実に彼らを危険因子としてロックオンし始めていた。




