EP 5
霞が関の月、修羅を統べる
「――はい、そこまで」
火薬の匂いと致死量の殺気が充満する地下司令室に、凛とした声が響いた。
重い防音扉の前に立っていたのは、輝夜だった。
彼女の顔には、いつもの穏やかな微笑みはない。霞が関の不夜城で、国という巨大なシステムを動かし続けてきた『為政者』としての、静かで冷徹な眼差しがあった。
「輝夜……」
「おどれ、下がっとれ。こいつは今、マジじゃ」
信長が鋭く警告するが、輝夜は立ち止まらなかった。
義正の眉間にKorthを突きつける龍魔呂と、その龍魔呂の側頭部に銃を突きつける信長。その極限の射線のど真ん中へと、彼女は一切の躊躇いもなく足を踏み入れた。
「龍魔呂さん」
輝夜は、義正に押し当てられていた龍魔呂の銃身を、細い手でそっと包み込んだ。
そして、そのままゆっくりと下へと押し下げる。
龍魔呂の瞳が揺れた。絶対的な殺意で固まっていた彼の手が、輝夜の温もりに触れた瞬間、わずかに力を失う。
「信長君も、銃を下ろして」
「……チッ。しゃあないのう」
信長が舌打ちをしてセーフティをかけ、銃をホルスターに収める。龍魔呂もまた、抵抗することなくKorthを下ろした。
輝夜は、粉々に砕け散った蘭のサブモニターを一瞥し、そして義正のメインモニターに映る『ルナミスとアバロンの相場崩壊チャート』を見た。
瞬時に、彼女の優秀な頭脳が現在の状況(盤面)を完全に理解する。
「義正君。貴方たちの空売りで、悪徳貴族たちの富は、すでにポポロ・ゴールド(PG)として私たちの手元に吸収されているわね?」
「あぁ、そうだ。だから後は奴らが干上がるのを待つだけだ」
義正が忌々しそうに答えると、輝夜は首を横に振った。
「いいえ。次に行うべきは『静観』じゃない。――『給付(バラ撒き)』よ」
「……何?」
義正が眉をひそめる。
「奪い取った莫大な富を、PGに換金して、ルナミスとアバロンの貧民街に直接空からバラ撒くのよ。名目は『ポポロ村からのベーシックインカム(緊急支援金)』」
輝夜の口から飛び出した常識外れの提案に、蘭が「えっ」と声を漏らした。
「龍魔呂さん。PGがあれば、隣町の子供たちは今日のパンが買えるわ。……いいえ、PG『でしか』買えなくなるの」
輝夜は、龍魔呂の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「隣町の商人たちは、紙屑になった帝国通貨ではなく、絶対的な価値を持つPGでの取引しか受け付けなくなる。結果、私たちのバラ撒いたPGが、あっという間に周辺諸国の『基軸通貨』になるわ」
その政策の持つ『真の恐ろしさ』に、真っ先に気づいたのは義正だった。
彼の脳内で、猛烈な勢いで算盤が弾かれていく。
悪党の資産を奪い、それを民衆に与える。
一見すれば、ただの義賊のような綺麗事だ。
だが、その実態は違う。民衆はPGを手に入れることで今日の飢えを凌ぐが、それは同時に『ポポロ村の経済圏に完全に組み込まれる』ことを意味する。
貴族たちの権力は完全に失墜し、代わりにポポロ村が、血を流すことなく数万人の民衆の『首輪(生殺与奪の権)』を握ることになるのだ。
「……ハッ」
義正の口から、乾いた笑いが漏れた。
「スラムのガキを救うって大義名分で、帝国の経済圏を完全にポポロ村に依存させる気か。……悪魔的だ。どんな極悪な詐欺師でも、そこまでえげつねぇスキームは描けねぇよ」
「えげつなくて結構よ」
輝夜は、義正の皮肉を正面から受け止めた。
だがその直後。彼女の顔が、ふっと苦しげに歪んだ。
「……それでも、嫌いよ。こんなやり方」
まるで自分自身の罪を告白するように、輝夜はポツリと呟いた。
彼女の瞳に、深い自己嫌悪と悲しみの色が浮かぶ。
「パンを与えて救うふりをして、見えない首輪で彼らを縛り付ける。こんなのは……私がかつて嫌悪した、霞が関の冷たいシステムと同じだわ。民衆を数字としてしか見ていない、残酷な支配……」
輝夜は、ギュッと両手を握りしめた。
綺麗事だけで世界が救えないことなど、彼女が一番よく分かっている。
「……でも、守るためなら使うわ」
輝夜が顔を上げ、修羅たちを強い意志で見据えた。
「龍魔呂さんの言う通り、大人の都合で子供が泣くのは間違っている。義正君の言う通り、悪党をそのままにしておくのも間違っている。……だから私が、その泥を被る。全員の責任は、私が持つわ」
その言葉に、地下司令室は再び完全な静寂に包まれた。
ただの聖女ではない。ただの冷酷な支配者でもない。
自らの手の汚れを自覚し、それでも大切なものを守るために、最もえげつない手段を『引き受ける』覚悟。
それこそが、霞が関の月と呼ばれた女の、本当の器だった。
「……ハハッ。違いねぇ」
義正が、顔を覆って腹の底から笑い出した。
「俺たちの完敗だ。……蘭! スラムへのPG散布のプログラムを組め! 物理ドローン全機発進! 派手にバラ撒いてこい!」
「了解! 最高に意地悪で優しい支援金、お届けするよ!」
蘭が、弾かれたようにキーボードを叩き始める。
信長は「やれやれ」と肩をすくめながらも、その目には輝夜への隠しきれない敬意と熱情が宿っていた。
龍魔呂は無言のまま、自分の右手に握られたKorthを見下ろした。
義正を撃たなくて済んだ。子供たちも救われる。
彼女はまたしても、彼を『地獄』から引き戻してくれたのだ。
「……すまない、輝夜」
龍魔呂が、掠れた声で呟く。
「謝らないで、龍魔呂さん。……ご飯、冷めちゃうから上に戻りましょ。キャルルちゃんが待ってるわ」
いつもの優しい月の微笑みに戻った輝夜が、龍魔呂の背中をそっと押す。
極限の殺し合いに発展しかけた男たちの衝突は、一人の女性の『泥を被る覚悟』によって、最凶の経済政策へと昇華された。
ポポロ・ゴールドの雨が、帝国に降り注ぐ夜が始まろうとしていた。




