EP 3
次元のオタクと、見えざる飢餓
ルナミス帝国、辺境の街。
昨日まで、そこには貧しいながらも確かな生活の匂いがあった。
だが今、街角の小さなパン屋の前で、一人の母親が絶望に顔を歪めていた。
彼女の握りしめた手には、なけなしの帝国銀貨が数枚。昨日なら、家族三人が腹一杯食べられるだけの温かいパンが買えたはずの金だ。
「お願いです、なんとか……この子だけでも……ッ!」
母親が泣き縋るが、店の主人は首を横に振るしかなかった。その主人の目からも、大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「ごめんよ……ごめんよ奥さん。小麦の仕入れ値が、朝から狂ったように跳ね上がってて……この銀貨じゃ、もうパンの欠片も売ってやれねぇんだ。うちも、今日で店を畳むしかねぇ……」
バタン、と無情にも下ろされる木のシャッター。
路地裏では、昨日まで挨拶を交わしていた隣人同士が、ゴミ箱に捨てられた野菜の切れ端を巡って血みどろの殴り合いを始めている。
「ママぁ……おなか、すいたよぉ……」
母親の足元で、痩せこけた小さな子供が、力なく泣き声を上げた。
義正たちが地下で引き起こした『通貨の崩壊』。それは悪徳貴族の財産を消し飛ばすと同時に、末端で暮らす名もなき民衆の命綱(経済)をも、完全に切断してしまったのだ。
◆ ◆ ◆
ポポロ村、『鬼龍』の厨房。
カウンター越しに輝夜とキャルルが談笑する声を背中で聞きながら、龍魔呂は包丁で大根の面取りをしていた。
その時。
『ズズズッ……ゴクッ。……ボス、聞こえるッスか』
龍魔呂の脳内に、直接ノイズ混じりの念話が響いた。
別次元の要塞に引きこもり、彼のサポートを勝手に担っている天才マッドサイエンティスト、『ガジェット』からの通信だった。
「……何だ」
龍魔呂は手を止めず、誰にも聞こえないほどの微かな声で応じる。
次元の向こう側で、ガジェットが脂ぎった指でキーボードを叩きながら、ハンバーガーを咀嚼する下品な音が聞こえてきた。
『いやぁ、ボスの新しいお仲間、マジで容赦ないッスね。ルナミスとアバロンの貴族どもの金庫、見事にすっからかんにしたッスよ。最高のエンタメッスわ』
「……そうか」
『でもボス。……ちょっと、シャレになってない事起きてるッス』
ガジェットの声から、ヘラヘラとしたおちゃらけた空気が消えた。
『俺のドローンが、隣町の映像拾ってるんスけど。……悪党だけじゃなく、スラムの連中まで完全に巻き添え食らってるッス。親が店を畳んで、路地裏でゴミの奪い合いが起きてる』
ピタリ、と。
龍魔呂の包丁の動きが止まった。
『ボス。……隣町の食い物の値段、昨日の3倍になってるッスよ』
――3倍。
そのシンプルな言葉が、龍魔呂の脳裏に、かつて自分が生きていた『地獄』の光景を鮮明にフラッシュバックさせた。
食い物がない。
昨日まで買えたパンが買えない。
それは、力のない子供から順番に飢えて死んでいくという、絶対的な『死の宣告』だ。
「…………」
龍魔呂は無言のまま、手元の包丁をまな板の上に置いた。
カツン、という硬い音が、やけに厨房に大きく響いた。
「龍魔呂さん?」
背後から、輝夜の不思議そうな声がかかる。
「……すまない。少し、地下の備品庫に行ってくる」
龍魔呂はエプロンを外し、振り返ることなく店の奥へと歩き出した。
その歩みは、もはや料理人のそれではなかった。
一切の感情を排し、ターゲットを確実に処理するためだけに存在する、冷酷なる処刑人の歩法。
(……悪党を潰すためだとか、そんな理屈はどうでもいい)
暗い地下への階段を降りながら、龍魔呂の右手にある『鬼王の指輪』が、微かに赤黒い熱を帯び始めた。
(俺の目の届く場所で……大人の都合で、子供が飢えて泣く事だけは、絶対に許さねぇ)
ポポロ村の地下司令室。
勝利の美酒に酔いしれようとしていた修羅たちの宴に、最も厄介で、最も純粋な『殺意』が、足音もなく迫っていた。




