EP 9
月明かりの敗者と、無償の愛
泥は、死の味がした。
仰向けに倒れたキュロスは、額に押し当てられた冷たい銃口の感触に、静かに目を閉じた。
全身の骨が軋み、肺は焼け焦げたように痛む。
敗北。完全なる、圧倒的な敗北。
帝国最強と謳われた誇りも、磨き抜いた闘気も、あの底知れぬ『地獄』を宿した男の執念の前には無力だった。
「……殺せ」
泥水を吐き出しながら、キュロスは掠れた声で言った。
「私の首を持っていけ。だが、後続の部隊には手を出すな」
敗軍の将としての、最後の意地だった。
自分の命と引き換えに、部下たちを救う。
しかし、頭上から降ってきたのは、予想に反した言葉だった。
「……バカ言うな。誰が殺すか」
信長が、ゆっくりとハンドガンを引いた。
キュロスが目を開けると、信長は血と泥に塗れた顔で、背後を振り返っていた。
「おい、輝夜。終わったぞ」
暗闇の向こうから、複数人の足音が近づいてくる。
雲が晴れ、静謐な月明かりが荒野を照らし出した。
そこに立っていたのは、戦場にはおよそ似つかわしくない、一人の可憐な女性だった。
日野輝夜。
彼女は、巨大な鍋を乗せた荷車を引きながら、ゆっくりとキュロスの元へ歩み寄ってきた。
「……貴様が、ポポロ村の長か」
キュロスが上体を起こそうとするが、激痛で動けない。
輝夜は彼の傍らに跪くと、泥に汚れたキュロスの顔を、清潔な布で優しく拭った。
「な……っ」
「信長君が、手荒な真似をしてごめんなさいね。痛かったでしょう」
輝夜の顔には、勝者の驕りも、敵への憎しみもなかった。
あるのはただ、傷ついた者を慈しむ、深い無償の愛だけだ。
「……何が目的だ。私を辱める気か」
「そんなわけないじゃない」
輝夜は後ろを振り返り、蘭から受け取った木のお椀に、鍋から何かを掬い入れた。
ホカホカと白い湯気が立ち上る。
「お腹、空いたでしょ? 夜の風は冷えるから、温かいものを食べて」
差し出されたのは、茶色いスープだった。
中には、たっぷりの野菜と豚肉が入っている。
信長特製の『豚汁』だ。
「……毒か」
「毒を入れるくらいなら、信長君に撃たせてるわよ。ほら、冷めないうちに」
キュロスは震える手で、お椀を受け取った。
警戒しながらも、本能がその芳醇な香りに抗えなかった。
一口、スープを啜る。
「…………ッ!!」
キュロスの瞳孔が、極限まで見開かれた。
それは、魔法だった。
地球の『味噌』と『出汁』が織りなす圧倒的な旨味が、疲労困憊の肉体の隅々にまで染み渡っていく。
野菜の甘み。肉の脂。
冷え切っていた胃袋が、太陽を飲み込んだように内側から熱を帯びる。
「美味い……なんだ、この温かさは……」
極限状態(夜と霧)の戦場を知る武人だからこそ、その『一杯の食事』が持つ暴力的なまでの救済に、心が耐えきれなかった。
「う、おおぉぉぉぉっ……!」
最強の騎士団長が、お椀を抱え込みながら、大粒の涙を流して泥の上で咽び泣いた。
それは、死の恐怖から解放された安堵と、自分たちを殺せたはずの敵から与えられた『無償の愛』に対する、完全なる屈服だった。
◆ ◆ ◆
その後方。
月明かりの影で、力武義正はジッポライターを弄りながら、その光景を静かに見つめていた。
「相変わらず、タチの悪い女だ」
義正は小さく笑い、口の中で飴玉を転がした。
「敵のトップを殺さず、極上の飯で教化(洗脳)して帰す。これ以上の『宣伝効果』はない」
「彼らが帝国に戻れば、ポポロ村の慈悲と豊かさは、騎士団を通じて軍全体に伝播する。武力の要が、完全に俺たちのファンになる」
義正の頭の中で、巨大な算盤が弾き狂っていた。
輝夜の純粋な善意。それは決して計算されたものではない。
だが、損得抜きの『無償の愛』だからこそ、義正はそれを最高の投資として成立させたくなるのだ。
「……輝夜の理想を通すには、国が三つは買える金が要るぞ。まあ、俺が全部合わせてやるがな」
義正が空中の電子ボードを見上げると、そこには驚異的な数字が叩き出されていた。
『ピロロロロロロロロロンッ!!!!』
【特大の善行を確認:敵将の救済および教化】
【特大の善行を確認:軍勢(数百名)への糧食提供による非戦の証明】
【平和構築ボーナス:100,000pt 獲得!】
【累計ポイント:限界突破(測定中)】
月明かりの下、傷ついた帝国の騎士たちが、次々と武器を捨てて温かい豚汁の列に並び始めていた。
武力ではなく、圧倒的な経済と、それすらも凌駕する『心』の支配。
ポポロ村の完全勝利が、ここに確定したのである。




