家の不審
この夜、俺は――。
二階の薄暗い一室で、一冊のノートを開いていた。
昼間のあの洞窟の中では暗すぎて、ろくに確認できなかった代物だ。
地主の監視の目を盗み、自分の部屋へ持ち帰ったそのノート。長年の湿気で歪んで波打ったページを、手袋をはめた指先で一枚ずつ、慎重にめくっていく。
劣化した紙特有の、ざらついた不快な感触が指先に残る。
そして、ついに辿り着いた最後のページ。
そこに書き残されていた文字を目にした瞬間、俺の手がピタリと止まった。
【宮野 誠也 ――失踪前】
「……失踪前、か」
静かな部屋に、俺の押し殺した声だけがぽつりと落ちた。
誰もいないはずの、ひっそりとした空間。
それなのに、自分が発した微かな声の残響すら、この部屋の壁に妙に吸い取られているような錯覚に陥る。
ノートからゆっくりと目を離した。
窓の外は、完全な夜だ。
昼間、事務所で聞いた久城や石井さんの話が、不意に脳裏をよぎる。
――住人が消えたのは、いつだって夜だ。
俺は、椅子の引く音を立てないよう静かに立ち上がった。
一階へと向かう自分の足音が、やけに大きく木床に響く。
一段。また一段。
階段を降りるたびに、足元から這い上がってくる空気が、わずかに冷えていくのが分かった。
俺は玄関のドアを見つめた。
そこから、視線をゆっくりと周囲へ巡らせていく。
古びた靴箱の僅かな隙間。
ドアの上部の枠。
壁に埋め込まれたインターホンの、黒く濁ったプラスチックレンズ。
どこを見ても、昼間出かける前と変わったところは何一つない。
――ないはずなのに。
プロの泥棒としての野生の勘が、そこから妙に目を離すなと警告している。
ここに、盗聴用のボイスレコーダーでも仕掛けられているのか。
あるいは、ピンホールのような超小型の監視カメラか。
そう考えた瞬間、この貸家を包む独特の“静けさ”が、まったく違う異質なものへと変貌した。
音が、なさすぎるのだ。
家鳴りすらしない暗闇の中で、自分の制御された呼吸音だけが、やけに浮いて耳に届いた。
この貸家のオーナー(地主の海馬か、あるいは書類上の名義人である松谷か)であれば、管理用の予備キーを持っていても何らおかしくはない。
だが――。
家の中に、他人が“入った形跡”はどこにもないのだ。
泥棒の俺が仕掛けた目立たないトラップも破られていないし、部屋が荒らされた様子もない。家具や小物の位置だって、ミリ単位で変わっていない。
それなのに。
なぜか、全身の肌が粟立つような“見られている”というネットリとした感覚だけが、どうしても消えない。
俺はゆっくりと熱い息を吐き出し、玄関のドアノブに手をかけた。
――冷たい。
夜の外気による冷え方とは違う。まるで、この家という構造物そのものが、内側から芯まで冷え切っているかのような、おぞましい温度だった。
指先に残る、その微かな違和感。
そのときだった――。
ギィ……。
頭上の二階の階層で、何かが小さく軋むような音がした気がした。
ほんの一瞬。衣類が擦れるような、あるいは古い木材が体重を受けてきしむような音。
耳を澄ます。
……。
何も聞こえない。
ただ、さっきまでと同じはずの静けさが、どこか決定的に“歪んでいる”ように感じられた。
俺は即座に思考を切り替える。
――見張られている。すでに、誰かがこの家に入り込んでいる。
オカルトじゃない。そう現実的な最悪を仮定して動いた方が、泥棒としての生存戦略において無駄がない。
俺は再び、階段へと向かった。今度はあえて、周囲を威嚇するように足音を響かせて上がる。
この家の間取りは、一階に広いリビングとキッチン、それに不自然なほど綺麗な和室が一部屋。
二階には、普段は使っていない空き部屋が二つある。
そのうちの一つを、俺は物置代わりに使っていた。
都会でこれまでに盗み出してきた大金と、裏の仕事の証拠のメモ。そのすべてを、そこのクローゼットの奥にまとめて隠してある。
――今すぐ、確認しておく必要がある。
階段を上がる。一段踏むごとに、みしり、みしりと床が軋む音が返ってくる。
さっき二階から聞こえた音と、まったく同じ種類の残響だ。
……気のせいか? いや、そんなはずはない。
二階の、外灯の光すら届かない廊下に出る。
心なしか、空気が少しだけ重く、肌にまとわりつく。
目的のドアの前で、俺はピタリと足を止めた。
裏の資産を隠してある、物置部屋。
鍵は、かけていない。
――いや、あえてかけていないはずだ。鍵をかけること自体が「ここに何かある」という不自然な目印になるからだ。
ドアノブに手をかける。一瞬だけ、自分の動きが停止した。
……チッ。俺としたことが、何をそこまで警戒している。
自分に小さく舌打ちを言い聞かせ、一気にドアを開け放った。
クローゼットの正面には、カモフラージュのために、まだ中身を片付けていない引越し用の段ボールを三つ、縦に積み上げていたはずだ。
ライトを向け、視線を落とす。
……二つしかない。
一瞬、脳の思考が真っ白にフリーズした。
見間違いか?
いや、違う。泥棒が自分の隠し場所のディテールを忘れるわけがない。位置も正確に記憶している。
一番上に積まれていたはずの、あの小ぶりな箱が、ない。
喉の奥が、わずかにキュッと引き締められるように緊張する。
――やられたか? 金を盗まれたか?
だが、不自然なほど部屋に荒らされた形跡はないのだ。引き出しも閉まったままで、埃一つ動いていない。
ただ、段ボールが一つだけ消えた。その「静かな異常」が、逆に狂おしいほどに気持ち悪い。
俺は鋭い視線をクローゼットへ向け、ゆっくりと観音開きの扉を開けた。
中のハンガーや衣類は、出かける前のままだ。
その奥の隙間に深く押し込んである、黒いボストンバッグ。
手を伸ばし、乱暴に引き寄せる。
ジッパーを引く布の擦れる音が、やけに大きく部屋に響き渡った。
バッグの中身を凝視する。
――金は、ある。
帯封のついた一千万円の束。その位置も、枚数も、一切崩れていない。
……おかしい。何が目的だ。
段ボールが一つだけ、確かにこの部屋から減っているのに、本命であるはずの裏金には指一本触れられていない。
俺は、ゆっくりと深い息を吐き出した。
胸の奥に、得体の知れない強烈な違和感だけが残り続け、トゲのように刺さっている。
◇
俺はひとまず、金の入ったバッグをクローゼットの最奥に戻した。
ジッパーを閉じ、元通りに見えない位置へ押し込む。
そして、視線を部屋全体へと鋭く向け直した。
――段ボールが、一つ足りない。
もし、侵入者がそれを外に持ち出していないのだとすれば。
この部屋のどこかに、まだあるはずだ。
部屋の中をゆっくりと歩きながら、ライトの光で床の隅々を追う。
壁際に積んである、別の不要な段ボールの山。
その山のうち、一番下の一箱が、わずかに数センチほど前にせり出していた。
……今朝、家を出る時は、あんな位置にあったか?
足を止める。
少しだけ間を置いてから、その山へと近づいた。
手を伸ばし、手前の箱を横へずらす。
段ボール同士がカサカサと擦れる音が、狭い部屋に小さく響いた。
その奥。
棚の影に沈むようにして――隠されるように、その「箱」はあった。
見覚えのある、ガムテープが剥がれかけた擦り切れた角。
間違いない。今朝までは、クローゼットの前にあった、あの消えた三つ目の箱だ。
俺はしばらくの間、その移動された箱を見つめたまま、微動だにできなかった。
……どうやって、そこに行った?
自分で動かした覚えは、天地がひっくり返ってもない。
なら。俺が会社にいる間に、誰かがこの部屋に入り、この箱をわざわざここに――。
そこまで考えて、一度思考を強制停止させる。
部屋を見回す。
やはり、窓の鍵もかかっている。音も、他人の気配も、今のところは一切ない。
それでも。
“物の位置だけが、確実に変わっている”
俺は苛立ちを隠せず、後頭部をガリガリと掻いた。
小さく、低い舌打ちが唇の間から漏れる。
――気のせい、で見過ごすには、あまりにも出来すぎている。何かのメッセージか、それともこちらの動揺を誘うゲームのつもりか。
俺は、金の隠し場所を根本から改める必要があると痛感した。
クローゼットの奥の、見えない位置に押し込んであるだけのバッグ。
――だが、地主の息がかかったこの家が相手じゃ、これじゃあぬるすぎる。
そもそも、俺がこの大金を銀行に預けなかった理由は単純だ。
金そのものの電子データ的な価値に惹かれているわけじゃない。自分が命を賭けて盗み出してきた、その“犯罪の成果”を、いつでも目で直接確認できる形(現生)で持っておきたかったのだ。
積み上がった一万円札の束を見るたびに、あの盗み出したスリリングな瞬間を鮮明に思い出す。
――手に入れた、という圧倒的な実感。
そこには、犯罪者特有の、わずかな愉悦と脳汁が混じっていた。
……だが、今のこの異常な状況で、この大金を地元の銀行やATMに直接持ち込めば――それこそ、一瞬で地主や町一帯の噂になる。
ここは、そういう「外の人間」を常に監視している閉鎖的な場所だ。
俺はポケットからスマホを取り出し、都会の裏社会で繋がっている信用できる仲間に、暗号化された連絡を入れる。
短く、要件だけを液晶に打ち込んだ。
『二重構造の特殊な家具、もしくは隠し底のあるカバンを早急に手配してくれ。送り先は偽名で指定する』
数分後、画面に既読がつく。
『任せろ』
それだけの短い返事。
だが、それで十分だった。裏のプロとしての仕事は早い。
当面の間、その特殊な保管具が届くまでは、今のクローゼットの奥で持たせるしかない。
だが――。
さっきの、勝手に移動していた段ボールの不気味さが、どうしても頭から離れない。
俺は画面をスクロールし、ついでにもう一通、同じ相手に頼み事を入れる。
『それと、もう一つ。玄関ドアのシリンダーの交換パーツ。既存の鍵と入れ替えるだけの、痕跡の残らない簡単なタイプでいい』
鍵の業者も、この町の奴らは使えない。すべて外のルートから密かに取り寄せる。
メッセージの文字を打ち込みながら、俺はふと思った。
こういうデジタルな機械や、防犯のセキュリティ構造に熟知していなければ、これからの時代、裏の仕事(泥棒)は務まらない。
鍵を開ける側も、そして自分の身を守る側も。
どちらのロジックも完璧に理解していなければ、この狂った町では通用しない。
オートロックや最新の電子錠に変えたからといって――それで100%安心できるわけじゃないのだ。
むしろ、逆だ。利便性を求めた先には、必ずバックドア(抜け穴)が存在する。
それに、鍵の構造を変えたところで、それは「外からの物理的な侵入」を防げるだけに過ぎない。
もし、この青い屋根の家そのものが、建物の構造レベルで最初から“内側から見られている場所(覗き穴や隠し通路がある場所)”だとしたら――そんな玄関の鍵の交換など、何の意味も持たない。
俺はスマホをポケットに収め、ゆっくりと室内全体の構造を見渡した。
剥がれかけた天井のクロス。壁の継ぎ目。古びて黄ばんだコンセント周り。
俺のプロとしての視線が、無意識にそれらの微細な隙間をなぞっていく。
あるとすれば――。
隠しカメラ。もしくは、こちらの音声を拾う特殊な集音マイク。
……どちらも、裏社会では決して珍しいガジェットじゃない。
だが。
どれだけ目を凝らして観察しても、それらの痕跡はどこにも見当たらなかった。
俺はその場に突っ立ったまま、完全に動きを止めた。
――見つからない。
プロの俺の目で探して、盗聴器の一つも見つからない。
それが、何よりも一番おかしい。仕掛けられていないはずがないのだ、この空気は。
フウ、と小さく息を吐く。
静まり返った部屋。
何も変わらないはずの、ありふれた四角い空間。
なのに――。
誰かに、すぐ至近距離でじっと一挙手一投足を見られているような、あの嫌な感覚だけが、どうしても消えない。
「……確実に、何かが『ある』前提で動くか」
誰に聞かせるでもなく、小さくそう呟いた。
――その瞬間。
背後の暗闇の廊下で、カサリ、と、微かな衣擦れのような音がした。
鋭く振り返る。
ライトの光を走らせる。
――そこには、やはり、何もない。ただの暗闇が広がっているだけだった。
俺はそれ以上その部屋に留まるのをやめ、物置部屋を後にした。




