消えた住人 2
錆びついた缶の底に、一冊のノートが沈んでいた。
端の擦り切れた紙肌は、まるで遺された契約書のようだ。何度も、何度もページが往復した痕跡が、生々しい皺となって刻まれている。
俺はポケットから新しいポリ袋を取り出し、手袋代わりに左手へ嵌めた。
「これには、何が書いてあるんです?」
問いかけると、久城はきまり悪そうに首の後ろを擦った。視線を泳がせ、わずかに頬を赤らめている。
——照れている。柄にもないその様子が、逆に不気味だった。
「それは……俺なりに調べたやつを、まとめたんすよ」
ノートをめくる。
目に飛び込んできたのは、ひどく歪な、殴り書きの文字。急きょ書き殴られた形跡があるにもかかわらず、不思議と推敲した(消した)跡が一切ない。
「家族構成とか、近所の評判……あとは、その前日にそいつがどう過ごしてたか、とかっすね」
ページの隅に記された日付。次のページにも、またその次のページにも、同じ狂気が連続している。
一つや二つではない。
石井が暗闇の中で、小さく顎を引いた。
「そうね。普通の退去なら誰も気に留めない。だけど……」
彼女は視線を地面の泥に落とす。
「行方不明とか、自殺とか、不穏な噂が立てば……嫌でもみんなの記憶に残る」
確かにそうだ。俺がこの町の住人でも、不審に思って調べるだろう。
だが——ここまでやるか?
見ず知らずの他人のプライベートを、その「最期」に至る足取りを、わざわざ一冊のノートに執拗に書き残すなど。
歪な文字群が、暗がりの中で蠢くように見えた。
「日付を見る限り、結構前から地主を疑っていたんですね?」
「このノートを書き出したの、三人目が消えたあたりなんすよ」
久城は事もなげに言った。
だが、その「三人目」という数字が、俺の思考の網に引っかかった。
急いでページを遡る。一人目、二人目。その記述は驚くほど少ない。断片的で、単なるメモの域を出ていない。
変化が起きたのは、三人目を境にしてからだ。
四人目以降の記録は、もはや狂気的なまでの「観察日記」へと変貌していた。
名前、詳細な家族構成、性格、日々のルーティン。
——果ては、趣味嗜好にいたるまで。
ページをめくる指が、冷えついて止まる。
「この町、情報の風通しだけは無駄に良いので」
石井がノートを見つめたまま、温度のない声で言った。
「どうでもいい噂話ほど、すぐに耳に入ってくるんですよ」
淡々とした口調。だからこそ、その言葉の裏にある事実が背筋を凍らせる。
つまり、この町では誰の私生活も、完全に筒抜けだということだ。
俺は、それぞれの人間が「失踪する前日」の記述に目を凝らした。
一人目。二人目。三人目——。
心臓の鼓動が早くなる。ページをめくる指に力が入る。
四人目、五人目、六人目。
「……おい」
喉の奥から、低い声が出た。顔を上げる。
「これ、記述が本当なら……あの地主、完全に黒じゃないですか」
「っすよね。俺もそう思うんすよ」
久城が強く頷いた、その瞬間。
「……確かに、共通点としては完璧です」
石井がゆっくりと首を傾げた。その瞳に、奇妙な光が宿る。
「でも、それ……私、知ってますよ。そのあと、みんな家に『戻って』るんです」
言葉が、洞窟の重い空気にぽつりと落ちた。
俺の脳内で組み上がりかけていたロジックが、音も立てずに瓦解していく。
「石井さんは、それを噂で?」
「そうです。私は直接見ていません」
石井は一度深く息を吸い、言葉を継いだ。
「でも、確かな話です。みんな、海馬さんの家からちゃんと帰宅してるって、噂になってる」
前日に地主(海馬)の家を訪れている。そこまでは、容疑として完璧だった。
だが、帰ってきている?
思考が急ブレーキをかける。噂などアテにならない。そう切り捨てたいのに。
「宮野さん、俺もそこが引っかかって……」
久城の声が一段と低くなる。
「宮野さんの家の近所に、直接訊いて回ったんすよ」
そこまでやるか、と驚愕する暇もなかった。
「帰ってくるところを、何人もの住人が目撃してるんす」
見た? 「帰ってきた姿」を?
俺は慌てて、前日の記述のさらに隣——「当日」の欄へ視線を滑らせた。
そこにも、文字は続いていた。
仕事。学校。買い物。
どれも、ありふれた日常のルーティンが、何事もなかったかのように整然と並んでいる。
「……当日も、普通に生活していたっていうのか?」
漏れ出た声が、洞窟の壁に反響した。
石井が記憶を遡るように視線を伏せる。
「……五人目の奥さんとは、個人的に仲が良かったんです」
彼女はスマホを取り出し、画面をスクロールした。ある箇所で指を止める。
「ほら、当日も、こうしてメッセージのやり取りをしてます」
差し出された画面には、他愛のない、日常のやり取り。切迫感など微塵もない。
「出かける約束を、していたんですね」
石井が静かに頷く
その横で、久城が苦渋に満ちた声を絞り出した。
「俺も、その人の息子とダチだったんすけど……その日の夕方、家に帰る直前まで普通に話してたんすよ」
夕方。
思考の結び目が、さらに複雑に絡み合う。その時間まで、彼らは確かに生きて、そこにいた。いつも通りに笑って、帰路についた。
それなのに。
「その、夜なんすよ。煙みたいにいなくなったのは」
久城の声が、闇に沈む。
「その日の夜遅く、旦那さんのご友人が家を訪ねた時には……もう、誰もいなくなっていたそうです」
石井はそこで口を閉ざした。
俺は、肺に溜まった湿った空気を吐き出した。気付けば、それまで遮断されていた周囲の音が、一気に耳に流れ込んでくる。
洞窟の奥で反響する、ひどく耳障りなコオロギの鳴き声。
「……もう暗い。一度、戻ろう」
二人は黙って頷いた。
「このノートだけ、預かっていいか?」
「いいっすよ」
久城の軽い返事を確認し、俺たちは契約書だけを缶に戻した。
シャベルで土を被せる。手を動かしながら、一瞬だけ缶の蓋が隠れる瞬間を見つめた。
——近いうちにまた、これを掘り返すことになる。
根拠のない確信が、胸をよぎった。
土を平らにならす。
最初から何もなかったかのように偽装して、俺たちはその忌まわしい場所を後にした。




