消えた住人
ボロボロの紙を、ポリ袋越しに指先で慎重に支えながら持ち上げる。
全部で六枚。
俺の視線は契約書に落ちたまま、久城に声をかける。
「これ、全部契約書ですか?」
久城は泥の上に缶を置いたまま、悪びれもせず軽く頷いた。
「ええ、そうですよ」
視線を再び紙に戻す。
名前はすべて別人。
だが――住所の欄に並んでいるのは、すべて同じ場所だった。
すなわち、俺が今、住んでいる、あの海辺の青い屋根の家だ。
「みんな、行方不明か死んだことになってるんすよ」
「……そうか」
紙の端を崩さないよう、指先の力をわずかに調整する。
これだけの数の人間が行方不明や死亡に追い込まれているのに、表のニュースには一切出ていない。警察すら動いた気配がない。
この町の「闇」の深さを考えかけた、その時だった。横からすっと白い手が伸びてきた。
泥棒としての野生の警戒心が働き、反射的に一歩引く。
久城さんの指先が、紙に触れる寸前で止まった。
「宮野さん! さっきからなんで触らせてくれないんすか! ケチっすね!」
久城が不満の声をあげる。
「あなたの手が泥で汚れているからですよ。書類が汚れて文字が読めなくなります」
俺が冷淡に言い放つより早く、石井さんが静かに告げた。
彼女の視線は、紙ではなく、久城の手元へと向いている。
俺も、その視線を追って同じ場所を見た。
久城はバランスを取るためか、洞窟の湿った土の壁に無造作に手をつき、ライトで周囲を照らしていた。
その湿った土の壁に、べっとりと手の跡が残る。
くっきりとした、五本の指の形。
久城の手が持つライトの光が、逆説的にその手形を鮮明に浮かび上がらせていた。
俺の視線が、その一点に釘付けになる。
――親指だ。
他の指に比べて、壁の泥にわずかに強く、深く押し付けられている。その不自然な肉厚の形が、俺の脳の引き出しに妙に引っかかった。
俺は、手元のボロボロの契約書へと目を落とす。
一番上の書類。黒くおぞましく潰れた、あの印影。
よく見ると、経年劣化による朱肉の滲みではない。かすかに残る、歪な凹み。
真円じゃない。
これは、スタンプや印鑑を捺した跡じゃない。生身の「指」で力任せに押したような跡だ。
もう一度、視線を上げる。
壁に残った、久城の親指の手形。
そして、手元の契約書の、不自然に黒く潰された印影。
頭の中で、その二つのピースが、狂いなく重なった。
――同じだ。この指紋の大きさと、肉の付き方。
「久城さん」
声をワントーン落とす。
「その親指――ちょっと、ここに重ねてみてください」
ポリ袋越しの指で、契約書の黒く潰れた印影の上を指し示した。
久城は何の疑いも持たず、「え? こうすか?」と、自分の泥まみれの親指をその印影の上に重ねた。
――大きさは、まさに印影の輪郭と寸分違わず一致した。
横から覗き込んでいた石井さんが、地を這うような低さで呟く。
「……ピッタリですね」
「うわ、本当だ、ピッタリっすね!」
「あぁ、ピッタリだ」
順番に、久城、そして俺がその事実を確認する。
俺はポリ袋の手を下げ、久城を鋭く睨みつけた。
「久城さん。あなた、この書類が一体どれだけ大事な物か、本当に分かっていますか?」
「分かってますよ。だからこうして、誰にも見つからないように缶に入れてここに隠してるんじゃないすか」
胸を張る後輩を見て、俺は自分の額を押さえて、深いため息をついた。
久城は……プロの泥棒には逆立ちしても向かないな。リスク管理の概念が致命的に欠落している。
それに比べて、横にいる石井さんの目の付け所は、決して悪くない気がする。
「石井さん、ちょっとこれを見てもらえますか?」
俺は石井さんに書類を差し出す。彼女は一枚目の紙に視線を落とした。
「私には特に、法律の知識とかはないですが……」
そう前置きしながらも、彼女はプロの事務職らしい冷徹な目で、じっと紙を観察し続ける。
「……待ってください。契約書、全部見せてもらっていいですか?」
俺は残りの紙もすべて石井さんに手渡した。
「ちょっと! なんで石井さんには触らせて、俺はダメなんすか!」
久城が不満を爆発させる。
「久城さんは、書類をどうしても雑に扱うので」
俺が当然の理屈を返すと、久城は子供のように顔を膨らませた。
「俺が苦労して集めたのに!」
久城が横で騒いでいる間、書類をめくっていく石井さんの顔が、みるみるうちに険しくなっていった。
「何か、変なところがありましたか?」
俺が訊ねる。
石井さんは契約書の『貸主』の欄に細い指を置き、慎重に目を走らせながら口を開いた。
「いえ……地主の名前じゃないんです。この貸家のオーナーの欄にある名前が」
俺は石井さんの指先へ視線を移す。
「ほんとっすね」
久城も横から覗き込む。
目を落とすと、俺の手元にある契約書にも、確かに貸主として『松谷 謙也』という見知らぬ男の名前が書かれていた。
「この町の地主の名前って、何て言うんだ?」
久城に問いかける。
「『海馬 瑛二』って言うんすよ」
海馬瑛二。それがこの町を牛耳る絶対権力者の名だ。
だが、このボロボロの契約書六枚、そして俺が持っている契約書に書かれているオーナーの名前は、すべて『松谷』だ。
全部で六枚のボロボロの紙。
俺は自分のカバンを開け、自分が『宮田』として不動産業者から受け取った、最新の契約書を取り出した。それと、今さっき泥の中から掘り出された紙を、ライトの光の下で照らし合わせる。
「えっ、宮野さん、自分の契約書を普段からカバンに持って歩いてるんすか?」
久城が、素で驚き混じりの声をあげる。
「当たり前だ。こういう重要書類は、常に手元に置いていつでも確認できるようにしておかないと、裏でも表でも話にならない」
俺は淡々と答え、湿った地面の上に二つの書類を並べて確認する。
「……やはり、俺の契約書も、同じ松谷という方の名前になっていた」
言葉を落とし、一拍、洞窟の静寂を置く。
「もし、法的にあり得るとすれば……地主の海馬は、とっくの昔に、あの家をこの松谷という人物に売却したんじゃないですか?」
だが、石井さんは即座に首を振った。
「それはないですよ。もし本当に売買があったなら、この狭い町です、すぐに噂が広まります。それに、あの家が空き家になると、地主のところの人間が必ず『点検』と称して見回りに来ますから。あの家が地主の管理下にあるのは間違いないです」
確かに、この町の情報の回りの早さは異常だ。隠し通せるはずがない。
だが――相手はこの町を支配する地主だ。役場や不動産業者を裏から操作していれば、誰にも気づかれずに名義を書き換える不法占拠、あるいは書類の偽造など、いくらでもやりようはある。
石井さんがさらに書類をめくりながら続ける。
「あと……気になるのは印影なんですが。他の方の契約書は、ちゃんと赤い本物の印鑑で押されているんです。久城さんの指の跡があるのは、宮野さんの前の住人の書類……この、直近の数枚だけなんですよ」
言われて、俺ももう一度紙に目を落とす。
確かに、過去の古い書類には、掠れてはいるが赤い朱肉の印鑑がはっきりと押されている。久城の指で押された、黒く不自然に凹んだ印影は、ここ最近のものだけだ。
「久城。お前、本当にこの家に暮らしたことはないんだな?」
俺は声を極限まで低くし、凄むように問いかけた。
「ないっすよ、マジで」
久城は両手を挙げて肩をすくめ、少しだけ困ったように笑う。
「じゃあ、何か隠してないか? 正直に言え」
俺の声がわずかに硬くなる。
久城のいつもの軽薄さと、この書類の持つ「犯罪の生々しさ」が、妙に噛み合わない。こいつは騙されているのか、それとも――。
「いや、隠してないっすって! 実は……ちょっとした『取引』をしたんすよ」
取引。
まさか、このノーテンキな久城の口から、そんな裏社会のような言葉が出るとは思わなかった。
「どんな取引だ。詳しく話せ」
俺は声を落として促す。
「いや、不動産会社の知り合いからこの過去の契約書をもらう代わりにさ、地主の使いの奴から『この紙にハンコくれ』って言われたんすよ。それで、書類と引き換えにサインさせられて」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「……なんで、お前が他人の契約書に印影を残す必要がある? なぜお前の指紋なんだ?」
久城はバツが悪そうに苦笑いを浮かべた。
「いや、その時、俺ハンコ持ってなかったんで」
軽く肩をすくめる。
「だから、向こうの奴が『じゃあ指でいいよ、黒いインク貸してやるから』って言うから、指でギュッと押したんすよ」
――軽い。
あまりにも、頭が軽すぎる。
普通の一クビの会社員なら、そんな怪しすぎるやり方は絶対に拒否する。
それなのに、久城は自分の指紋(実印代わり)を他人の契約書に押されたことを、今でも全く気にした様子がない。
「……そうですか」
短く返しながら、俺はプロの犯罪者としての頭脳をフル回転させる。
他人の契約書に、久城の指で押された、黒い印影。
その事実だけが、妙に喉の奥に引っかかっていた。
これは名義の隠蔽か、それとも……地主側が、久城の「指紋」を欲しがる本当の理由は一体何だ? まさか、何かの事件の犯人に仕立て上げるための――。
「これ、久城さんの字じゃないですよね?」
視線を落としたまま、俺は契約書のサインの欄を指さした。
整いすぎている。
線に迷いがなく、均一で、筆圧も一定――久城の書く、あの丸っこくて汚い字とは、明らかに違う。
「違いますよ。俺は指を押しただけで、名前は向こうの奴が勝手に書いてました」
あっさりとした返事。
その恐ろしいほどの軽さが、俺の警戒心を最大に跳ね上げる。
横から、石井さんがその契約書をじっと覗き込んだ。
「……でも、この名前って」
少しだけ長い間を置いてから、彼女は震える口を開いた。
「宮野さんの、ちょうど一つ前にあの家に住んでいて……先月、行方不明になった人の名前ですよね?」
一瞬、脳内の思考が完全に停止した。
前の住人。
先月、行方不明になった人間。
その男の契約書に、なぜか今、目の前にいる久城の指紋が、実印の身代わりとして黒々と押されている。
その意味の重さが、暗い洞窟の中にやけに重く、冷たく残った。
「……ここの引越し業者(あるいは不動産会社の人間)は、随分と適当な仕事をするな」
俺の口から、皮肉混じりの乾いた言葉が漏れる。
本人の指でもないのに、適当な身代わりの人間の指紋を、ハンコ代わりに押させて処理するなんて。
――いや。
地主側は、久城のこの「騙しやすい性格」を正確に見抜いた上で、意図的にこれを押させたのか?
「そうっすね、田舎なんてそんなもんっすよ」
久城は相変わらず、自分の置かれた危機的状況に気づかず軽い。
「久城さん。少しは自分の身のことを心配したらどうですか」
石井さんの声が、先ほどよりも明らかに強く、怒りを含んで響いた。
「これ、悪質な詐欺とか、もっと悪いことにあなたの名前や指紋が使われている可能性があるんですよ?」
もっともな指摘だ。
俺も、黙って小さく頷く。
――たしかに。
こいつには金もなければ、大した権力もない。
だが。裏社会の人間が、こういう「無知な人間の指紋と名義」を悪用する方法なら、俺の頭には今、いくらでも思いつく。
……例えば、死体の身元を偽装するための書類とか、な。
そこまで考えて、ふと、自分の口元に違和感を覚えた。
暗闇のライトの光に映らないよう、俺は咄嗟に顔を伏せる。
――無意識に、俺の口角が上がっていた。
この町を支配する絶対的な地主。
その裏で行われている、おぞましい詐欺まがいの犯罪行為、あるいはそれ以上の巨悪。
相手がそういう泥臭い連中なら、やり方はいくらでもある。
「そんな、詐欺まがいの不法行為をする連中ですよ、相手は」
俺は自分のカバンから、いつも裏の仕事で重宝している透明なプラスチックファイルを取り出した。
「この契約書自体、本物かどうかも怪しいですね」
破れかけたボロボロの紙を、ポリ袋の手で丁寧に広げていく。
湿気を含んだ紙が、じっとりと指に張り付いた。
「え、宮野さん、それにファイルに入れるんすか? それだと、この元の丸缶に入らなくなっちゃいますよ?」
久城の言葉に、俺は足元のスチール缶へ視線を落とす。
少し考えて――俺はカバンから、愛用のハサミを取り出した。
躊躇なく、透明なファイルに鋭い刃を入れる。
シャキイン、とビニールが鈍い音を立てて裂けた。
缶の内径のサイズにぴったり合わせるように、余分な部分を手際よく切り落としていく。
歪みが出ないように、四隅の角を均等に揃える。
こんな湿った泥だらけの洞窟の中であっても、俺は自分の「形」だけは崩したくない。完璧主義な泥棒としてのプライドだ。
「……宮野さんって、本当に几帳面ですよね」
石井さんが、作業する俺の手元をじっと凝視していた。
「石井さんも、デスクを見る限りそういうタイプだと思いますよ」
手を止めずに、事務的な声で答える。
ふと、昼間の、営業所の整えられた彼女の机を思い出した。
無駄のない配置。寸分の狂いもなく揃えられた書類の束。
――この、暗く、湿った不気味な洞窟の中とは、真逆の綺麗で秩序ある場所。
それでも、俺の手によって、泥の中の証拠品たちの「形」だけは整っていく。
ファイルに綺麗に収まった、過去の犠牲者たちの契約書。
ハサミによる、歪みのない美しい切り口。
だが――。
その中身のロジックだけが、どうしても、どうやっても噛み合わない。
誰のものでもない、黒く潰された印影。
ここにいない別人の名前。
そして、それを何の疑いもなく、笑顔で押してしまった目の前の男。
綺麗にリサイズしたファイルを、俺は再び丸缶の中にゆっくりと戻した。
蓋を開けたままの缶の口が、ぽっかりと、暗闇の中でこちらを向いている。
まるで――。
まだ、ここに新しい「何か」が収まるのを、じっと待っているみたいに。




