缶の中の契約書
湿った土の匂いが、奥から吹く風に乗ってねっとりと流れてくる。
目の前には、暗黒の口を開けた洞窟。
その奥は光を拒むようにどこまでも暗く、現実と闇の境界が曖昧に溶け合っている。
久城がジャケットのポケットから安物のLEDライトを取り出し、何の迷いもない足取りでその暗闇を照らした。
「久城さん……確かにここなら、誰にも話を聞かれないかもしれませんが」
俺は足元を一瞥し、思わず口を開いた。
「服装、少しは考えてくださいよ」
光に照らされた地面は、容赦なくぬかるんでいる。
一足数万円する都会仕込みの革靴や、ビジネススーツで踏み込んでいい場所じゃない。
「服装ですか?」
暗闇に、久城の間の抜けた声が響く。
――やっぱり、何も考えてない。こいつのこういう抜けたところが、妙に鼻につく。
わずかに苛立ちが混じるのを隠せないまま、俺は言葉を重ねた。
「俺たちはまだいいですけど、石井さんは女性ですよ。少しは配慮というものを――」
振り返ると、石井さんはいつも通り、オフィス用のアイボリーのスーツ姿のまま佇んでいた。
この泥まみれの洞窟にはおよそ不釣り合いなほど、明るく、綺麗な色。
だが、彼女は表情一つ変えなかった。
「私なら、大丈夫です」
静かにそう言って、彼女はためらいなくドロドロの地面に一歩を踏み込む。
ヒールの靴底が、湿った土を容赦なく押し潰す鈍い音がした。
「ほら、石井さんも大丈夫って言ってるじゃないですか」
久城が振り返り、ライトの光の中でケラケラと軽く笑う。
「土汚れなんて、後でまとめてクリーニングに出せばいいんですよ」
悪びれもせず、彼は石井さんの後ろに続いて奥へと進んでいく。
……どこまでも軽すぎる。だが、この執着のなさは一体何だ?
「石井さん。久城さんが後でクリーニング代を全額出してくれるらしいですよ」
俺は背中に向けて、わざと意地の悪い皮肉を投げた。
しかし、石井さんは振り返ることもなく、ただ短く返した。
「――覚えておきます」
その背中が、また一歩、洞窟の濃い暗闇に飲まれていく。
――仕方ない。
俺も腹を括り、泥の中に一歩を踏み出す。
足元が予想以上にぬかるみ、わずかにバランスを崩しかけた。
その瞬間、奥から這い出してきた淀んだ空気が、首筋の肌に触れた。
冷たい。
……ただの気温の低さとは違う、妙にまとわりつくような冷たさだ。
思わず顔を上げる。
ライトの光すら届かない、その先の絶対的な暗黒。
何も見えないはずなのに――なぜか、そこから視線を逸らすことができなかった。
◇
洞窟の奥は、思っていたよりもずっと浅かった。
五分ほど歩いたところで、唐突に湿った岩肌の行き止まりにぶつかる。
逃げ場のない湿った空気がそこに淀み、俺たちの足音だけがやけに大きく反響していた。
「それで――」
俺は足を止め、二人を呼びかけるように声を落とした。
「わざわざこんな場所まで来て、俺に見せたい物って、一体なんですか?」
久城はすぐには答えなかった。
代わりに、迷いなくその場にしゃがみ込む。
そして――サラリーマンなら誰もが躊躇するはずの泥の中に、躊躇もなく素手で両手を突っ込んだのだ。
爪の間に湿った土が入り込むのも構わず、ガリガリと土をかき分ける音だけが、静まり返った空間に不気味に響き渡る。
「……何をしてるんですか、久城」
思わず声のトーンが低くなる。
久城は顔も上げず、泥まみれになりながら淡々と手を動かし続けた。
「俺も、あの地主のこと、ずっと怪しんでるんすよ」
土を掘り返す手が止まらない。
まるであらかじめ、そこに何が埋まっているかを正確に知っているかのような、迷いのない動き。
「宮野さんの、今の家――」
久城が一度だけ手を止めた。
指先についた大きな土の塊を払い、軽く息を吐き出す。
「あの青い屋根の家に、前に住んでた人たちのこと……俺、個人的に調べてたんすよ」
その一言に、俺の胸の奥がわずかに跳ねた。
――情報だ。
ただの都市伝説や噂話じゃない。この男、本当に何かを掴んでいる。
「意外ですね」
俺は視線を落とし、感情を押し殺した声で言う。
「あなたが裏でそんなこと、しているなんて」
久城が、ようやく泥の中から顔を上げた。
薄暗い闇の中で、その瞳だけがやけにギラギラと光って見えた。
「宮野さん……あまり、久城さんの話を信じすぎるのは危険です」
背後にいた石井さんの声が、地を這うように低く響く。
――その通りだ。
久城の普段の行き当たりばったりな言動を考えれば、こんな場所で掘り出した話をそのまま鵜呑みにできるはずがない。
プロの泥棒として、常に最悪の罠を警戒すべきだ。
「分かってますよ、石井さん」
そう口にしながらも、俺の視線は、自然と久城の手元へと吸い寄せられていた。
激しく土を掘り返していたはずの彼の両手が――ピタリと止まっている。
その異様な違和感に気づいた、次の瞬間だった。
「なんすか二人してその言い方。少しは仲間として信用してくださいって」
久城が、ゆっくりと泥まみれの両手を持ち上げる。
土にまみれた指の間から、鈍い光を放つ何かが覗いていた。
円形の、錆びかけた金属の質感。
「……それ」
思わず、押し殺した言葉が喉から漏れる。
久城は両手で軽く、その表面の土を払った。
現れたのは――ただの「缶」だった。
見覚えのある形だ。
少し高級なクッキーや菓子でも入っていそうな、市販の、どこにでもある丸いスチール缶。
なのに。
こんな人跡未踏の洞窟の底から、出てくるはずのないシロモノ。
「まず、そのネクタイを毎日ちゃんと結べるようになったら、少しは信用してあげますよ」
俺は動揺を隠すように、彼の首元を指で示した。
朝からずっと気になっていた、あの右に大きく歪んだネクタイの結び目。
久城は一瞬だけ、突かれたように目を瞬かせ――
すぐに、いつもの締まりのない顔で笑った。
「あはは、そこっすか。相変わらず細かいなぁ」
石井さんはその冗談には一切言葉を挟まず、久城の腕の中に収まったその缶へ、ただまっすぐに視線を落としていた。
「……缶、ですか?」
静かな、しかし確信に満ちた確認。
彼女のその澄んだ声だけが、妙に広く洞窟内に響いた。
◇
「はい。中に入ってるの、大切な紙の束とノートなんで」
久城が缶の錆びついた蓋に、泥だらけの指をかける。
その瞬間、一瞬だけ彼の動きが止まった。
――ためらいか。
それとも、中身を開けることへの恐怖か。
次の瞬間、パキンと軽い金属音を立てて蓋が外れた。
密閉されていた中身が、ついに露わになる。
缶の中に乱雑に詰め込まれていたのは、何枚もの紙の束と、一冊の小さな古いノートだった。
だが――その状態は想像以上にひどかった。
湿気のせいか、紙の端はボロボロに崩れ、繊維が白く毛羽立っている。
それだけじゃない。ところどころがどす黒く変色し、文字が滲んだような跡が広範囲に広がっていた。
ただの水濡れや、経年劣化によるシミじゃない。
――形があるのだ。
まるで、血のついた指で直接なぞったかのような、不自然な黒いシミ。
「……なんだ、これ」
思わず、声が漏れた。
管理が雑というレベルを遥かに超えている。何かの事件の生々しい痕跡そのものだ。
「え! 嘘だろ!? この前、俺が見たときはまだ綺麗で大丈夫だったのに!」
久城が突然、焦ったように声を荒げた。
その動揺の言葉に、俺の脳細胞がわずかに引っかかる。
――この前? こいつ、つい最近もここに来てこれを開けたのか?
「当たり前だろ」
俺は視線を書類から外さずに、冷淡に返す。
「こんな湿気だらけの場所に直に埋めとけば、雨水でも何でも中に入り込む可能性はいくらでもある」
石井さんが、そっとその場にしゃがみ込んだ。
ボロボロの紙とノートを覗き込み、細い指先でその端を、壊れ物を扱うように軽く持ち上げた。
「……これ、まだ文字は読めるんですか?」
その声は驚くほど落ち着いていた。
だが、そのほんのわずかな声音の震えに――明確な躊躇と、恐怖が混じっているのを俺は見逃さなかった。
俺は自分のカバンに手を突っ込み、中から透明なポリ袋を取り出した。
そのまま右手を袋の中に差し込み、簡易的な手袋代わりにする。
指紋を残さないため、そしてこれ以上、貴重な証拠である紙を手の脂で傷めないためだ。プロの泥棒としての習性と防衛本能が、勝手に体を動かしていた。
「宮野さん……! なんですかそれ、普段からそんな物持ち歩いてるんすか?」
呆れたような、しかしどこか感心したような久城の声。
「裏の仕事の癖だ。持ってると、色々と役に立つ場面が多いんでね」
短く、言い訳のようにつぶやきながら、俺は乱雑に詰め込まれた紙の束に手を差し入れた。
一番上にある、比較的形の残っている一枚を慎重に引き抜く。
ビニール越しに伝わる、湿って今にも破れそうな紙の感触――。
視線を落とし、そこに書かれた文字を追う。
「……これ……」
見覚えがあった。
つい数日前、自分でも全く同じ書式のものに目を通し、サインをしたばかりだからだ。
それは、あの貸家の『賃貸借契約書』だった。
だが――何かが決定的に異常だった。
「ハンコが……」
契約書の最下部、最も重要であるはずの印影の部分が、どれも真っ黒に潰れていたのだ。
経年劣化による朱肉の褪色ではない。上から太いペンか何かで、悪意を持って塗りつぶしたような、不自然な黒。
一瞬、思考が真っ白に止まる。
「おまえ……これ、一体どうやって手に入れた?」
思わず、久城に向ける声が鋭く、強くなった。
こんなものが、一般の会社員の手元に簡単に出回るはずがない。
久城はバツが悪そうに、小さく肩をすくめた。
「いや、俺の知り合いに、引越し会社で働いてる奴がいて……そいつからこっそり融通してもらったんすよ」
あまりにも軽い口調。
まるで、会社の備品をちょっと借りてきたとでも言うような態度。
だが、その悪びれない呑気な顔を見れば見るほど――
逆に、俺の背筋には、凍りつくような冷たい戦慄が走っていた。
もう一度、手元の契約書に目を落とす。
黒く、おぞましく塗りつぶされた印影の横には、俺の知らない人間の名前が、何人も、何人も、暗闇の中に冷たく並べられていた。




