缶の中の契約書
湿った土の匂いが、風に乗って流れてくる。
目の前には、口を開けた洞窟。
奥は光を拒むように暗く、境界が曖昧に溶けている。
久城がポケットからライトを取り出し、何の迷いもなく奥を照らした。
「久城さん……確かに誰にも聞かれないかもしれませんが」
思わず口を開く。
「服装、考えてくださいよ」
光に照らされた地面はぬかるんでいる。
スーツで踏み込む場所じゃない。
「服装ですか?」
間の抜けた声。
——やっぱり、何も考えてない。
わずかに苛立ちが混じる。
「俺たちはまだいいですけど、石井さんは女性ですよ」
振り返ると、石井はいつも通りのアイボリーのスーツ姿だった。
この場には不釣り合いなほど、明るい色。
だが、本人は表情を変えない。
「私なら大丈夫です」
そう言って、ためらいなく一歩踏み込む。
靴底が、湿った土を押し潰す音がした。
「ほら、大丈夫じゃないですか」
久城が軽く笑う。
「土汚れなんて、クリーニング出せばいいんですよ」
そのまま、石井の後ろに続く。
……軽すぎる。
「石井さん、久城さんがクリーニング代出してくれるらしいですよ」
皮肉を投げる。
石井は振り返らず、短く返した。
「覚えておきます」
その背中は、暗闇に飲まれかけている。
——仕方ない。
一歩踏み出す。
足元がぬかるみ、わずかにバランスを崩す。
その瞬間、奥から流れてくる空気が、肌に触れた。
冷たい。
……妙に、冷たい。
思わず顔を上げる。
ライトの届かないその先。
何も見えないはずなのに——
なぜか、視線を逸らせなかった。
洞窟の奥は、思っていたより浅かった。
五分ほど歩いたところで、行き止まりにぶつかる。
湿った空気が淀み、音がやけに響く。
「それで——」
足を止める。
「見せたい物って、なんですか?」
久城は答えない。
代わりに、しゃがみ込む。
そして——何の躊躇もなく、素手で土に手を突っ込んだ。
湿った土が、指の間から崩れる。
掘り返す音だけが、静かな空間に響いた。
「……何してるんですか」
思わず声が低くなる。
久城は顔も上げず、淡々と続ける。
「俺も、地主のこと怪しんでるんすよ」
土をかき分ける手が止まらない。
まるで、場所を知っているみたいに。
「宮田さんの今の家——」
一度だけ手を止める。
指先についた土を払い、軽く息を吐いた。
「前に住んでた人、調べてたんすよ」
胸の奥が、わずかに跳ねる。
——情報だ。
ただの噂じゃない。
「意外ですね」
視線を落とす。
「そんなこと、してるんですか」
久城が、ようやく顔を上げる。
薄暗い中で、その目だけがやけに光って見えた。
「宮田さん……あまり信じすぎるのは」
石井の声が、わずかに低い。
——その通りだ。
久城の普段の言動を考えれば、鵜呑みにできる話じゃない。
「分かってますよ」
視線は、自然と久城の手元に落ちる。
土を掘り返していたはずの手が——止まっている。
その違和感に気づいた瞬間だった。
「なんすか、その言い方。信用してくださいって」
久城が、ゆっくりと両手を持ち上げる。
土にまみれた指の間から、何かが覗いた。
円形の、金属。
「……それ」
思わず言葉が漏れる。
久城は軽く土を払う。
現れたのは——缶だった。
見覚えのある形。
高めの菓子でも入っていそうな、どこにでもある缶。
なのに。
こんな場所から出てくるはずのない物。
「まず、そのネクタイをちゃんと出来るようになったら信用しますよ」
俺は指で示す。
一日中気になっていた、歪んだ結び目。
久城は一瞬だけ目を瞬かせ——
すぐに、笑った。
「そこっすか」
石井は言葉を挟まず、久城の腕の中へ視線を落とす。
「……缶、ですか?」
静かな確認。
その声だけが、妙に響いた。
⸻
「はい。中に入ってるの、紙とノートなんで」
久城が缶の蓋に指をかける。
一瞬だけ、手が止まった。
——ためらいか。
それとも。
次の瞬間、軽い音を立てて蓋が外れる。
中身が、露出する。
詰め込まれていたのは紙の束と、小さなノート。
だが——状態がひどい。
紙の端は崩れ、繊維が毛羽立っている。
ところどころ黒ずみ、滲んだ跡が広がっていた。
ただの水濡れじゃない。
——形がある。
指でなぞったような、不自然なシミ。
「……なんだこれ」
思わず漏れる。
管理が雑、というレベルじゃない。
「え! この前まで大丈夫だったのに!」
久城が声を荒げる。
その言葉に、わずかに引っかかる。
——この前?
「当たり前だろ」
視線を上げずに返す。
「こんな場所に埋めとけば、雨でも何でも入る可能性ある」
石井が、しゃがみ込む。
紙とノートを覗き込み、指先で端を軽く持ち上げた。
「……これ、読めるんですか?」
その声は、落ち着いている。
だが、ほんのわずかに——
躊躇が混じっていた。
俺はカバンからポリ袋を取り出す。
そのまま手を差し込み、簡易の手袋代わりにする。
これ以上、紙を傷めないためだ。
「宮野さん! そんな物、持ち歩いてるんですか?」
呆れたような久城の声。
「持ってると、色々役に立つ」
短く返しながら、乱雑に詰め込まれた紙の束に手を入れる。
慎重に、一枚を引き抜く。
指先越しに伝わる感触——これは。
視線を落とす。
「……これ」
見覚えがある。
つい最近、自分でも目にした書式。
貸家の契約書だ。
だが——
「ハンコ……」
印影の部分が、黒く潰れている。
ただの押印じゃない。
上から塗りつぶしたような、不自然な黒。
一瞬、思考が止まる。
「おまえ……これ、どうやって手に入れた?」
思わず、声が強くなる。
他人の契約書だ。
こんなもの、簡単に出回るはずがない。
久城は肩をすくめる。
「俺の知り合い、働いてるんすよ」
あまりにも軽い口調。
まるで、大したことじゃないみたいに。
その顔を見て——
逆に、背筋が冷える。
もう一度、契約書に目を落とす。
知らない名前をが並べられていた。




