洞窟の奥には?
小さな事務所に、冷え切った空気が落ちていた。
古いエアコンが低い唸りを上げ、壁の時計が一定の、残酷なリズムを刻み続けている。
三人分の息遣いだけが、やけに大きく室内に響いていた。
石井さんは小さく目を伏せたまま、緊張で強張った顎をわずかに動かす。
「……俺が話すんすか?」
間の抜けた、しかしどこか冷徹な声が、静寂を鋭く割った。
久城だ。
すっと石井さんの人差し指が立つ。口元に当てられたそれは、必死の、そして無言の制止だった。
「静かにしてくださいって、言ったばかりですよ……!」
俺は、ゆっくりと久城を睨みつける。
視線で圧をかけるのは、本社の営業でも、裏の仕事(コソ泥)でも基本の技術だ。
「……分かったよ。俺が話すんで、ちゃんと聞いてくださいよ、宮野さん」
久城が机にぐっと身を乗り出す。
安物のオフィスチェアが、ギィと小さく軋んだ。
「宮野さんの家――」
一拍、置いて、久城は声を限界まで潜めた。
「あれ、地主の『生贄』にされてるって噂っすよ」
一瞬、思考の全機能が停止した。
生贄。
現代の、それも普通の会社組織の地方拠点で、およそ飛び出すはずのない単語。
その異常な言葉だけが、重低音のように場に残り、こびりつく。
……くだらない。オカルトのデマだ。
そう切り捨てようとした。だが、脳内の警告灯が激しく明滅を繰り返す。妙だ。何かがおかしい。
「そんな話、大の大人が信じるわけないですよ」
俺はあえて退屈そうに背もたれに体を預けた。動揺を悟られないためのハッタリだ。
今度は、石井さんが小さく、震える息を吐き出しながら口を開く。
「……あそこの家、ここ数年で何人も人が入れ替わっているんです」
「貸家だろ。住人が変わるくらい、珍しくもないです」
「みんな、退去の仕方が不自然なんです」
石井さんは手元のデスクに視線を落としたまま、取り憑かれたように言葉を続ける。
「行方不明。……それから、自殺。みんな、いなくなっちゃうんです」
脳内の情報が、最悪な形でパズルのように繋がっていく。
不動産業者のあの泳いだ目。「色々ありましてね」という濁
した声。
だが、俺の理性が、まだそれを「偶然の範疇」だと拒絶しようとする。
「たまたま、事故物件が重なっただけじゃないのか?」
声のトーンは崩さない。優秀なビジネスマンの仮面を維持する。
「それが……あの貸家、例の地主の持ち家なんです。そして、そこに住まわされる人は、みんな宮野さんみたいに『外の世界』から来た人間ばかりで」
外から来た、人間ばかり。
偶然にしては、あまりにも偏りすぎている。獲物を選別しているかのように。
チク、タク、と秒針の音だけが、規則正しく脳髄を叩く。
――ガチャ。
重い鉄扉が、唐突に開いた。
それぞれが無言のまま、弾かれたように席に戻る。椅子の脚が、床を不快な音で擦った。
「おはよう……」
入ってきたのは、営業所の責任者・今野だった。
入り口でピタリと足を止める。その鋭い視線が、久城、石井、そして俺の順に、舐めるように手際よくなぞった。
「なんだ、この空気は。……朝から何の話をしていた?」
俺はPCの画面を指で示し、完璧な愛想笑いを貼り付けた。
「いえ、石井さんに、この北側の一帯を営業で回ったことがあるか聞いていただけですよ。今後の参考にと」
「そこか? そこはなぁ……」
今野の声が、わずかに濁る。一瞬、眼光に冷たい光が宿った。
「今野さん、大丈夫っすよ! さっき俺が宮野さんに説明しといたんで。地主の敷地だから、俺らが行く必要は一切ないって」
久城の、いつも通りの軽薄な声。
今野が、ゆっくりと口元だけに笑みを浮かべた。
「……そうか。久城、お前は少し余計なことまで話したようだな」
視線が、再び三人を出刃包丁のように鋭くなぞる。
「この部屋の空気を見れば、それがよく分かる」
俺は内心の冷や汗を隠しながら、久城を一瞥した。
石井さんはすでに画面に視線を落とし、猛烈な勢いでキーボードを叩いている。カチャカチャと、やけにそのタイピング音が速く、そしてうるさい。完全に怯えている証拠だ。
「いいじゃないっすかぁ。この町じゃ、みんな知ってる話ですよ」
久城が空気を温めようとヘラヘラと笑う。
「今野さん。話は触りしか聞いていないので、大丈夫ですよ」
俺も加勢する。
「宮野さん、すみません。うちの若い者が、余計な不安を煽るような真似を」
今野の視線が、わずかに細くなった。見定められている。
「本当に大丈夫ですから。噂はどこまで行っても噂ですし」
一拍、置く。
「俺なんて、この町に来てから『都会のエリートイケメン』なんて噂を流されてるくらいですからね。噂なんてあてになりません」
あえて自虐を交ぜた冗談を放った。
――だが、誰も、クスリとも笑わなかった。誰も、その冗談を否定しなかった。
◇
定時を過ぎ、仕事が終わる。
事務所には、俺と、久城と、石井の三人だけが残っていた。
今野は先ほど外回りに出たきり戻っていない。
どちらに当たるべきか。
俺は頭の中で冷徹に天秤にかける。
久城は口が軽い。だが、軽すぎて情報の精度が低い。
石井は口が固い。だが、懐に飛び込めれば確実な真実を握っている。
――時間がない。二人が帰る前に、ここで強引に問いただすか。
それとも、一度家に帰り、あの「青い屋根の家」に何かが隠されていないか徹底的に捜索(家宅捜索)をするか。
迷いが、断ち切れない。
「お? 宮野さん、まだ帰らないんすか?」
顔を上げると、荷物をまとめた久城がニカッと笑っていた。
「あ、ああ……ちょっと、仕事の考え事があって」
その言葉に、帰り支度をしていた石井さんの手が、ピタリと止まった。
「それって……朝のこと、ですか?」
否定は、しなかった。じっと二人を見つめ返す。
「それなら、いい所あるんで」
久城が、親指で軽く、窓の外の暗闇を示した。
「三人で、場所変えて話しません?」
一瞬、躊躇する。
だが……二人まとめて、今野の目の届かない場所で話を聞けるなら、悪くない条件だ。
「久城さん。その口、また滑らせたりしませんか?」
石井さんの声は、低く、どこか警告を含んでいた。
「言いませんよ! 俺がどれだけ信用ないんすか、石井さん」
久城が膨れる。
「だって、朝、あんなに話したじゃないですか」
俺が、二人の警戒を解くために何気なく言った。
言ったあとで、気づく。
「……朝?」
久城の目が、不自然に細くなった。
事務所の空気が、わずかに、しかし決定的に揺れた。
「いいじゃないっすか」
間を強引に切り裂くように、久城が笑う。
「ちょうどいい場所、俺知ってるんで。そこで全部話しましょうよ」
石井が、わずかに眉を寄せ、久城を凝視する。
「……どこですか、それ」
「近いっすよ。この時間なら、絶対に誰も来ない場所だし」
軽い口調のまま、久城はくるりと翻って歩き出す。
すれ違いざま、一瞬だけ、奴と視線が合った。
――こいつ、俺を試しているのか?
「……行きましょう」
俺はカバンを掴み、立ち上がった。
外に出ると、地方特有の、刺すような夜の冷気が肌を刺した。
久城が先に立つ。
迷いのない、恐ろしいほどに真っ直ぐな足取り。
石井が、怯えたようにその少し後ろを歩く。
俺は、さらにその後ろから、二人の挙動を監視するように従った。
道は、進むごとに次第に暗くなっていく。
街灯の数が減り、やがて完全に途絶えた。人の気配も、虫の音すらも消える。
「この先っす」
久城が、振り返りもせずに言い放った。
足を止める。
そこから先は、アスファルトの舗装が完全に途切れていた。
湿った、黒い土の道。
街灯の届かない、その道の行き止まりには、巨大な『黒い口』が開いていた。
――洞窟だ。
「……ここですか?」
「はい。ここなら誰も来ないんで。最高でしょう?」
久城が振り返り、暗闇の中で笑う。
その笑みが、昼間のドジな部下のものとは違い、少しだけ、深く、歪んで見えた。
ヒュウ、と洞窟の奥から、湿った風が吹き出してくる。
凍りつくように、冷たい。
「……いい場所ですね、久城さん」
石井の声は、わずかに硬く、そしてどこか、諦めたように響いた。
俺は、懐のライトをいつでも抜けるよう備えながら、洞窟の奥の、底知れない暗黒を凝視する。
何も見えない。
――だが。
泥棒としての野生の直感が告げていた。
押し寄せる悪寒に震えながらも、俺は、そこから視線を逸らすことができなかった。




