宝の価値
俺は、玄関の鍵穴を交換する手配だけは済ませていた。
新しく買った二層式の家具と、同じタイミングで届く予定になっている。
——まだ、現実には何ひとつ変わっていない。
それでも、生活は容赦なく続く。
朝起きて、仕事に行き、帰ってくる。職場での久城と石井は、気味が悪いほどいつも通りだった。くだらない雑談をしては、声を上げて笑っている。
あの不気味な洞窟のことも、地主の不審な動向も、誰も口にしない。
まるで最初から、そんなものは存在しなかったかのように。
静かすぎる日常。その平穏が、かえって俺の肌に冷たい違和感を残していた。
「宮野さん」
不意に名前を呼ばれた。
顔を上げると、上司の今野がすぐ目の前まで迫っていた。
一歩。また一歩と、こちらのパーソナルスペースを侵すように距離を詰めてくる。
「なんでしょうか?」
俺は座ったまま、今野の顔を見上げた。
「宮野さんがここに来て二週間になるが、慣れたか?」
拍子抜けするほど、ありふれた問いだった。
「ええ、すっかり」
口元だけで軽く笑ってみせる。だが、このまま話を終わらせるのも、どこか気持ちが悪い。
俺は一歩、踏み込んでみることにした。
「今野さん。そういえば……市役所の掲示板に貼ってある、あの土地の伝承ですけど。あれ、本当なんですか?」
今野の動きが、わずかに止まった。一瞬だけ、視線が斜め下に逸れる。
「……宝の話か」
低く、呟くような声。
「半々だろうな」
半々。あまりに曖昧で煙に巻くような答えに、俺の眉がわずかに寄る。
「どういう意味ですか?」
今野はこちらをじっと見つめたまま、ほんの少しだけ口元を歪めた。
「アレはな……見る奴によって、宝になるか、ただの石ころになるかが決まるんだよ」
その言い方で確信した。
——この男は、何かを掴んでいる。
「その宝って、具体的に何なんですか?」
さらに踏み込む。
一瞬の沈黙。今野の口元が、今度は愉悦を孕んだ形できわめてゆっくりと歪んでいく。
「それは、自分で探せ」
低く、こちらの反応を楽しむような声音だった。
「この町の連中はな……教えないよ。誰も、な」
その含みのある言い方に、強烈な引っかかりを覚えた。
俺は無意識に、少し離れた席にいる久城へと視線を向けた。
——一瞬、目が合う。
だが、久城は弾かれたように、不自然な動きで露骨に視線を逸らした。
「久城ですら、お前には話さないさ」
今野が、背後から追い打ちをかけるように囁く。
「そういう“掟”だからな」
やっぱり、この町は狂っている。
来たばかりの余所者の目から見ても、狂気は明らかだった。
外の世界と、決定的な何かが繋がっていない。
人が消えると噂される家。あの地主が持つ、異常なまでの影響力。それらは血の通った現実の話であるはずなのに、掲示板に貼られた“宝”の伝承だけが、奇妙に浮き上がっている。
まるで、そこだけ別の世界の理屈で動いているかのように。
何も事件は起きていないはずなのに、じわじわと頭の奥が重くなっていく。
とりあえず——あの家を、どうにかしなければならない。
今日、帰宅すれば鍵の交換業者が来るはずだ。
新しい鍵は、すでに手配してある。わざわざ、この町の外の業者を呼んだ。
近場にも鍵屋はあったが、使う気にはなれなかった。
どこで、誰を通じて情報が漏れるか分からない。もしあの地主に「宮野が鍵を替えた」と知られたら——。
考えすぎかもしれない。それでも、胸にこびりついた嫌な予感は消えなかった。
その日、俺は早めに仕事を切り上げて帰路についた。
家に戻り、着替えを終えた頃、タイミングよくインターホンが鳴った。
ドアを開けると、予定通り、市外から呼んだ鍵の交換業者が立っていた。
「今日はよろしくお願いします」
軽く頭を下げると、業者は慣れた手つきで手早く作業に取りかかった。
チチチ、と金属の擦れる冷たい音が、静かな部屋に響き渡る。
ただそれだけの時間が、永遠のように長く感じられた。
「終わりました」
思ったよりも早かった。俺は真新しい鍵を受け取り、シリンダーに差し込んで回してみる。
カチャリ、と小気味よい音を立てて、滑らかに回った。引っかかりは、どこにもない。
「それにしても、近くの業者に頼んだ方が安く済んだんじゃないですか? 出張費もかかりますし」
業者が何気ない調子で言った。
俺はあらかじめ用意していた理由を述べ、肩をすくめてみせる。
「そうなんですけどね。前に一度お願いしたことがあって、その時の対応がすごく丁寧だったのを思い出したもんですから」
「そうでしたか! ありがとうございます」
愛想よく笑い、業者は去っていった。
重いドアを閉める。
手の中にある新しい鍵を、もう一度、内側から回す。
——これで、物理的には大丈夫なはずだ。
だが、これで終わりではない。
仕掛けられているかもしれない隠しカメラ。そして、この家で前の住人たちが「どうやって消えたのか」。
その二つの謎は、何ひとつ解決していない。
鍵を替えた程度で安心できるような、生易しい状況ではないのだ。むしろ、その侵入ルートが分からない限り、この家に居続けること自体が命取りになる。
知らないうちに、今もどこからか見られているかもしれない。
気づかないうちに、前と同じ“何か”が俺の身にも起きるかもしれない。
……それだけは、絶対に阻止しなければならない。
だが、カメラを本格的に探すにしても、あまりに露骨に動けば敵に気づかれる。
もしこの家をリアルタイムで「見ている誰か」がいるのだとすれば、俺の不自然な行動は、それ自体が警戒の引き金になる。
だからといって、何もしないわけにはいかない。
どこに仕掛けられているのか。そもそも、本当にカメラなんてあるのか。
——確かめる必要がある。問題は、そのやり方だ。
深く、考えを巡らせる。
この家で、人はどうやって消えたのか。
外に出た形跡もなく、鍵も内側から閉まったまま、それでいて跡形もなく消え失せる。
まともな手段であるはずがない。
いくつか仮説は浮かぶが、どれも決定的な証拠に欠けた。
……一人で辿り着ける答えじゃない。俺の手に負える範疇を超えている。
もし、誰かを頼るなら……やはり、久城か?
だが、彼にすべてを打ち明けることはできない。
俺はもう一度、普段の掃除を装って家の中を捜索し始めた。
雑巾を手に取り、床を拭くフリをしながら、視線だけを鋭く動かす。
玄関から廊下、そしてリビングへ。
わざと雑多な生活音を立て、自分の足音をその中に紛れ込ませる。
どこかに抜け道はないか。隠し扉のような隙間はないか。
壁に手を当て、軽く叩いてみる。
コン、コン。……反響は、どこも同じ一様な音を返す。
コンセントの隙間、ドアの蝶番の裏、エアコンの吹き出し口。
視線で細かいパーツを舐めるように追った。
それでも——怪しいと思える箇所は、ただの一つも見つからない。
「……ない、か」
小さく呟き、俺は一度手を止めた。
雑巾を置き、そのまま寝室へと向かう。ドアを閉めると、その閉鎖音がやけに重く響いた。
ポケットからスマホを取り出し、連絡帳を開く。
液晶の光の中に、いつもの見慣れた名前の並びが浮かび上がる。
その中で、「久城」という二文字だけが、やけに鮮明に自己主張しているように見えた。
俺はスマホの画面を消し、ベッドの上へと放り投げた。
静まり返った部屋の中で——あの今野の言葉だけが、妙に引っかかって消えなかった。




